ヒースの王冠

2


「あ、陽介お兄ちゃんだ!」

特捜隊本部を出た花村がすぐさま足を向けたのは、首都郊外にある一軒家である。
そこそこ広い庭には物干し竿が置かれ、洗濯物がはためいていた。庭の片隅には家庭菜園もあって、青々とした葉が地面を覆っている。もう少しすれば、野菜が収穫できるだろう。

花村の名前を呼びながら勢いよく立ち上がったのは、そんな物干し竿の下でもなく、畑の前でもなく、きれいに片づけられた玄関ポーチに座り込んでいた少女だった。
ちなみに彼女の周りで三匹、膝の上で一匹の猫がくつろいでいた。少女が立ち上がっても特に驚くこともなく、膝の上にいたはずの猫は今、彼女の腕におとなしく抱かれている。

「おはよう、菜々子ちゃん」
「おはよう、陽介おにいちゃん!」

そんな少女、堂島菜々子に満面の笑顔で挨拶をされて、花村の表情も自然にゆるんだ。
人見知りの気がある菜々子が花村にこうやって自然な笑顔を向けてくれるようになったのは、意外にも出会ってすぐのことだった。その理由は、簡単。
菜々子がこれ以上ないほど信頼している相手が、菜々子に花村を紹介してくれたからだった。保護者のお墨付きがあれば、子どもはけっこう簡単に懐くのだ。

それに、もともと花村の外見には威圧感というものが欠如している。少しだけ外見印象が軽く見えるおかげで、それなりに得はしていた。とっつきやすいからだ。

ただ、なまじとっつきやすく様々なことを言いやすいだけに、よけいなこともいろいろと背負わされる。

(あれとか、これとかな)

ただ潜入しているだけなら、まだよかった。強要されて情報を渡すことに抵抗はあったが、もともと特捜隊の隊長は上層部に渡されて困るような情報を隊員たちにあっさり流したりしない用意周到さがあるので、さほど致命的なことは起こったりしなかったからだ。

隊長は、部下であり仲間たちでもある花村たちを信用していないわけではない。必要なことは、なんでも伝えてくれる。
ただ、上層部──主に統合作戦本部の命令を無視するようなときは、他の誰にもそれを言わないだけだ。
知らないのだから、責任者である隊長以外に責任はない。他のメンバーは、それに巻き込まれただけ。だから、彼らに処罰を与えるのはおかしいと主張し、それを常に押し通していた。

そうやって、ひとり責任を背負い込もうとする隊長にして相棒のことを、花村はいつも水くさいと思っている。そうやって身体を張って守ろうとしてくれるのは嬉しいが、本当はその肩の荷物を自分たちにも分けて欲しいのだ。それをしてもらえないまま『相棒』を名乗るのは、なぜか詐欺のような気がしている。
だが、同じくらい、ホッとしてもいた。そう、花村は知らないのだ。
知らない情報は、流すことができない。たとえ強要されようと恫喝されようと、知らぬ存ぜぬを貫き通せる。
──これ以上、裏切らずにすむ。

(そのはず、だったんだけどさ)

思い出したくないことを頭から振り払って、花村は手を伸ばすと優しく菜々子の頭を撫でた。撫でられて、菜々子が嬉しそうに破顔する。

「菜々子ちゃん、ちょっと聞きたいことあるんだけどさ」
「なーに?」
「もしかして、お兄ちゃん来てる?」
「うん、いるよ。うらのおにわでおひるねしてる」
「や、やっぱり……」

──そして、やはり探し人は間違いなくここにいたらしい。花村の勘は、見事に当たったようだ。
予想がばっちり当たったのに、なぜか喜べない。がっくりと肩を落とした花村を見上げて、菜々子は神妙な表情を浮かべた。
菜々子は、未だ七歳。そんな、周囲に配慮した思慮深い表情が似合う年齢ではないのに、彼女はちょくちょくそんな顔を見せる。
それは、彼女の境遇が強い影響を与えていた。

「お兄ちゃん、お父さんかえってこないから菜々子のこと、しんぱいしてくれてるんだね」
「菜々子ちゃん」
「だから、まい日きてくれるんだよね? ほんとはこのじかん、お兄ちゃんおしごとだよね?」
「…………」
「いいのかな。お兄ちゃん、だいじょうぶなのかな。菜々子、お兄ちゃんのじゃましてる?」

菜々子の父親、堂島遼太郎は共和国連邦軍の少将だ。しかも、そんな階級にいながら、師団長ということもあり常に最前線にいる。出たきりで帰ってこないというか、なぜか帰還の許可が下りない。
もともと、堂島は前線にいることを好む将校だ。後方で指示を出し結果を待つくらいなら、自ら突っ込んで行く。しかも正義感が強いのでいわゆる大人の事情的な命令を大人しく聞くことがないため、部下には怖がられつつも慕われるのだが、やはり上には睨まれるタイプだった。
なお、特捜隊の設立に深く関わったのも堂島だ。その結果、最前線に飛ばされたという噂もある。きっと、事実なのだろう。

上層部の言うことを聞かないのは、特捜隊の隊長と同じだ。それもまた、仕方ないことなのかもしれない。
なにしろ、このふたりは血が繋がっているのだ。堂島少将が叔父で特捜隊の隊長が甥っ子、つまり菜々子は隊長の従妹ということになる。
ここは、堂島が支給されている官舎とは別に持っている、個人の家だ。なかなか帰ってこられない父親をひとり待つ菜々子のために、花村の相棒はいろいろと心を砕いていた。自身に割り当てられた官舎も放置で、大体はこちらで寝泊まりしている。花村はそういった行動を間近で見ていたので、よく知っていた。
この家がまるで猫屋敷のようになっているのも、その一環だ。菜々子ひとりで猫の世話をするのは大変なので、ちょくちょく通っているのだ。その、猫屋敷にした張本人が。

「だいじょーぶだって!」

それを知っている花村に、菜々子の問いかけにうなずくなどということはできなかった。
やることもないのに、本部でじっとしていたくないという気持ちもあるのだろう。というか、むしろそれがいちばんの理由のはずだ。
ただ、ひとりでさみしがっている従妹を気遣う気持ちも理由の大半を占めているということも、わかってしまう。
だから、わざと明るく笑ってみせた。菜々子が、安心できるように。

「陽介お兄ちゃん」
「菜々子ちゃんのお兄ちゃんは、やらなきゃけない最低限の仕事は終わらせてからここ来てるんだから、いいんだよ」
「……ほんとに?」
「ほんとに。それに急な用事ができたら、こうやって俺が迎えにくればいいんだしな。ほら、問題ない」
「……いいの?」
「いいって。俺も、菜々子ちゃんに会えて嬉しいしな!」
「…………うん! 菜々子も、陽介お兄ちゃんに会えてうれしいよ」

ぱあっとまぶしい笑顔を見せられて、自然と花村の頬もゆるむ。
常識的に考えれば、隊長がこうもちょくちょく本部を抜け出していいわけがない。だが、少なくともこうやってちょくちょく行方不明になる隊長に花村が抱いている不満が「いちいち手間暇かけて探させやがって」でも「仕事しろ」でもなく、「俺に一言もなく勝手にどこかに行くな」である以上、やはり問題はないのだろう。

「で、裏庭だっけ?」
「うん。ねこといっしょにおひるねしてた」
「じゃあ、ちょっとお邪魔するな?」
「うん! どうぞ!」
「にゃあー」

元気な菜々子の声に反応して、猫がのんきな鳴き声をあげる。なんとなくその声につられて、花村はふわふわの毛皮に手を伸ばした。
特に、理由はない。なかったのだが。

「あ」

その指先が、猫の毛に触れることはかなわなかった。避けられてしまったからだ。

「あれ、どうしたの?」
「にゃん」
「そっか、わかった。はずかしいんだね。陽介おにいちゃんに会うの、そういえばはじめてだもんね」
「はは……っ、そういやそっか」

菜々子にはおとなしく抱かれていたのに、花村の手は避けてふいとそっぽを向いてしまった猫の仕草を目の当たりにして、なんとなく切ない気分に陥る。やっと見つけた探し人の姿を、つい重ねてしまったからかもしれない。

──べつに、そんなつれない態度を取られたことは、ないのだが。
もしかしたらこれから先、真実を知られたらそうなるかもしれない。おそらくは、その恐怖感が見せた幻なのだろう。

「んじゃ、菜々子ちゃん、またあとでな」
「はあい」

菜々子に向かって笑顔で手を振ってから、花村は裏庭へと向かって歩き出す。

すでに見慣れた菜々子の笑顔をかわいいと、愛しいと思うようになったのも、特捜隊に配属されたことで大切な繋がりを得ることができたからだ。
失いたくない、そう強く思う。だとすれば、導き出される答えはひとつ。
感情はとっくの昔にその答えを選んでいるのに、どうして完全にその道を選べないのか。

「……はあ」

我が事ながら、ため息しか出なかった。





「おい」
「…………」

菜々子の言う通り、探していた相手は家の裏に広がる芝生に寝っ転がって、呑気な寝息を立てていた。
そのすぐ近くで、茶色の猫と灰色の毛並みを持つ猫が二匹、仲良く並んで丸まっている。平和なものだ。

花村がすぐ真横で、見下ろしながら声をかけてみても、探し人も猫たちも微動だにしない。
青々とした芝生に砂色のさらさらとした髪を埋もれさせ、軍服姿のまま惰眠を貪っている特捜隊の隊長にして自身の相棒を、花村は軍靴の足先でちょいとつついた。もちろん、力はかなり加減して。

「おいこら、那伎。起きろ。狸寝入りしてんじゃねーぞ」
「…………」
「おい」
「…………」
「……って、違うの? マジで寝てる?」
「…………」

声をかけても、名前を呼んでも、足先でつついてみても、共和国連邦軍情報部直属特殊戦闘連隊の隊長、那伎暁大佐はびくともしない。寝返りすら打とうとしないし、穏やかな呼吸すら乱れない。
どうやら、熟睡しているようだ。まだ、午前中なのだが。

「にゃあ」
「みゃあー」

先に、猫たちのほうが目を覚ましたようだ。容赦なく安眠妨害する花村を迷惑そうに見上げ、それでもそれ以上文句を言うわけでもなく、二匹の猫は仲良く寄り添って他の場所へと移動していった。もっと他の、日当たりのいい場所を探しに行ったのだろう。

「……ったく」

猫たちの後ろ姿を見送って、花村はその場に座り込む。そのまま、寝こけている相棒の顔をのぞき込んだ。
那伎の顔は、かなり整っている。女顔というわけではないし、格別派手な作りをしているわけでもないが、妙に人目を惹くのだ。よけいなものをそぎ落とした末の、ストイックな印象のせいなのかもしれない。実際、老若男女問わずに人気がある。

その中身はべつに、格別ストイックだというわけでもないのだが。そのことを知っている人間も、そう多くはないのだが。
そして──人気を集める反面、那伎のことをうとましく思っている人間も多かった。自分たちの都合良く動かない人気者など、軍上層部にとっては厄介者でしかない。

「…………」

気配を殺さずに近寄っても、しかも真横に座り込んでも目を覚まさず熟睡しているなんて、気を許されている証拠だ。信頼されている証だ。
嬉しいのに、その事実が花村の胸を刺す。締めつけられるような痛みと、きりきりと細い針で抉られるような痛みが、同時に花村を苦しめた。

今朝、統合作戦本部から秘密裏に押しつけられた不本意な命令が、脳内をぐるぐると回る。

『なにも、殺せって言ってるわけじゃないんだよ。単に、第一線から身を引いて欲しいだけなんだって』

のうのうとそんなことを口にした本来の上官の顔なんて、ほとんど覚えていない。過去に一度だけ、それこそ二年前にこの任務を押しつけられたときに直接会いはしたものの、それ以来一度たりとも実際に会ったことなどなかった。正直、会いたくもなかった。この二年、声しか聞いたことがない。

『なんせ、堂島少将の甥っ子じゃない? あの人も上の言うこと聞かないけど、さすが血縁だけあるよね。堂島さんは師団長だから最前線に足止めしとけばまあ面倒なことにはならないんだけどさ、特捜隊はやっかいなことに特殊権限多すぎてさ。お偉いさんが、ほんと困ってるんだよ。やってもらいたい任務をことごとく拒否されるって』

那伎に拒否されるようなろくでもない要請ばかりするからだろう、とは言わなかった。そんなこと、言うまでもないからだ。

『堂島さんがそこまで考えて、特捜隊の設立に力を入れたのかはわかんないけどね。あの人、もともと僕の上官だったからわかるんだけど、けっこう親馬鹿っていうか叔父馬鹿っていうか……まあ、それはいいよ。とにかくそういうわけで、うちのお偉方は暁くん──とと、特捜隊の那伎大佐が邪魔なわけ。でも、だからって命まで取ろうとは思わない。なんたって、同じ軍に所属する同志だからねえ? ちょっと、しばらく復帰できないような大怪我をしてくれればいいんだよ』

つまり、那伎が大怪我をして一線を退いている間に、特捜隊を乗っ取ってやろうということなのだろう。那伎がいなくなり、急に送り込まれてきた即席の隊長などにあの個性豊かな隊員たちが従うとも思わないが、花村はそれについてもあえて沈黙を貫いた。

『嫌です。その命令には従えません』

最初から、聞き入れるつもりなどなかったからだ。
いつまでも統合作戦本部と特捜隊、両方に関わっているから罪悪感に悩まされることになる。それなら、片方を捨てればいい。

どちらを捨てるかなど、悩むまでもない。那伎を傷つけろなど、そんな命令を押しつけられる羽目になるのなら、なおさらだ。我慢の限界を突破した。
その結果、たとえ統合作戦本部に報復を受けることになっても、花村にはなんとかする自信があった。幸い特捜隊は特殊権限に恵まれている。

だからこそ、勇気を出して拒否したのに。

『そうだねえ。もしキミが拒否したら、お偉いさんたちが短気を起こしちゃうかもしれないねえ? それこそ、暗殺とかさ』

──それは、不発に終わった。顔さえあやふやな上官、足立大佐は花村がどういう反応をするかなど、最初から想像していたのかもしれない。
暗に、相棒の命を盾に取られたようなものだ。そうなってしまえば、命令拒否などできない。怪我を負わせるなど、しかも花村自身の手で負わせるなど冗談ではないが、それを拒絶すれば那伎の命そのものが危うい。

「なんで、寝てんだよ……そんな、のんきにさ」

今、那伎は無防備に寝息を立てている。
そして──花村の懐には、使い慣れた苦無が忍ばされていた。見た感じ、那伎が武器を携帯している様子は見られない。そういう意味では、絶好の機会なのかもしれなかった。

「…………」

もし本当に戦うこととなれば、那伎は武器など必要としない。それでなくても少ないペルソナ能力者の中でも、特に秀でた力を持つワイルドの特性を持つ者だ。実際には両手剣や刀を手にしていることが多いが、丸腰だからといって油断していい相手ではない。
それは、花村が誰よりもよく知っている。那伎の隣でずっとその戦い振りを見ていたのは、他でもない花村だからだ。
羨望と、憧れと、それ以上の誇りを持って。

「……なんで……」

流れるような動作で、花村は両手に苦無を携える。
ターゲットは、目の前だ。命を絶つ必要など、どこにもない。むしろ、それを阻止するためにもやらなければならない。

「…………」

ふと、気づく。今まで、こんなに手にした苦無を重く感じたことはなかった。
もし、これがただの訓練なら。目の前に、同じく武器を構えた那伎が立っていて、負けることなど考えたこともないと言いたげな不敵な笑みを浮かべているとしたら、きっと全身の血が沸き立つほど興奮できただろうに。
状況としては、正反対だ。なぜこんなことをしなければならないのか、未だに花村は納得できない。

強く、苦無の柄を握る。
指が強ばるほど、渦巻く感情を押し殺す勢いで、強く握りしめて。

「……できるわけ、ねぇだろ……ッ!」

──そのまま、手を離した。苦無が、地面に落ちる。
拾い上げてもう一度手にする気力など、もうとっくの昔にどこかへ消え失せていた。

花村にとって、那伎は信頼できる相棒だ。誰よりも守りたい相手だ。実際は守られることも多いが、対等に肩を並べていられている証だと思えばそれも悪くない。

それ以上に親友だとも思っていた。同い年なせいか、共にいてとても楽なのだ。仕事でもプライベートでも、一緒にいてこれほど充実した時間を過ごせる相手はいない。たとえなにもしなくても、傍にいるだけで満たされた。

そして──花村には、それ以上を望む気持ちが確実にある。花村が『相棒』である那伎に向けている感情の強さは、今やもう親友や相棒や、じつは信頼できる上官などという域で留めておくことが不可能だ。

那伎を傷つけるなど、冗談ではない。だが、ほんの少しだけ、考えてしまった。

もし──本当に那伎が特捜隊の隊長でいられなくなるような重傷を負ったら、そしてそれがずっと治らなければ。
花村がそんな那伎をずっと支えたら、一生自分のものでいてくれるだろうか。

そんな、ありえない妄想を。

「マジ、ありえねー……」
「なんだ、やらないのか」
「っ!?」

そのとき──聞こえるはずのない声が、聞こえた。
弾かれたように顔を上げる。そこには、やはり那伎が寝そべっていて……目を、開けていた。
横になったままじっと花村を見上げる砂色の瞳が、ほんの少し細められている。午前中の日差しが眩しいのか、それとももっと他の理由があるのか、それはよくわからない。

「絶好のチャンスだったのに」

ただ、その声色は、どこか面白がっているように聞こえた。