ヒースの王冠

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「ちょ……っ、まっ、待ってください!」

軍人にとって、上官の命令は絶対。
そんな基本中の基本であることは、新米もいいところの一般兵士でも知っている。そしてまだ年若いほうだとはいえ、仮にも士官クラスの将校である花村陽介も承知していることではあった。
それなのに、なぜそんな言葉が口をついて出てしまったのか。

「そんな、無茶です。できるわけありません!」

もちろん、無謀としか思えなかったからだ。

「ん〜、でも、これって命令なんだよね〜」

だが、あっさりとそう言い切った上官の言葉は、信じられないほどに軽かった。
指に挟んだ書類らしきものをもてあそびながら、花村を見下ろしている。その視線はどうでもよさそうに見えるのに、瞳の奥に宿る光は思わず背筋に震えがくるほどに冷たい。

「で、ですが」

とはいえ、そこでひるんでしまうわけにもいかなかった。
花村は今まで、この目の前にいるとんでもないことを言い出した上官と、一度も話したことがない。それどころか、顔さえまともに見たことがなかった。名前すら、あやふやだ。

知っているのは、とにかく偉い人だということ。少なくとも、名前はともかく、階級は大佐。それだけは、覚えている。
べつに、花村の物覚えが悪いわけではない。立場的に上官であることは間違いないのだが、はるかに上の人すぎてまったく接点がないだけだ。

そんな偉い人にいきなり名指しで呼び出されて、花村がどれだけ驚いたか。特に呼び出されてまで褒められるようなことをやった覚えもないが、いきなり懲罰をくらうような失敗もしていないはずだった。
だが、それもあくまでも花村自身がそう思っているだけだ。士官学校を卒業して着任してからそこまで時間も経っていない者の判断など、アテにならない。
そう自分自身に言い聞かせて、どんなお説教を喰らおうとへこまないよう覚悟を決めてきたというのに。

「どう考えても俺……じゃなくて、自分では不適格です。そんな、身分を隠して潜入しての諜報活動だなんてできるわけが……」
「はいはい、もう一度言うからね。これは命令なんだよ、花村陽介少尉。貴官に拒否する権利は、どこにもないってわけ。わかる?」

必死に言い募ろうとした花村の言葉を、途中でさえぎって。
連邦軍統合作戦本部総務部長である足立透大佐は、あくまでも軽く、そう言い放った。





「……ったく、どこ行きやがったんだよ……」

共和国連邦軍情報部直属特殊戦闘連隊・通称『特捜隊』副長、花村陽介少佐の一日は、自身の相棒でもある隊長を探すところから始まる。

これがまた、一筋縄ではいかない。一応、名目上は情報部に属しているものの、割り振られる任務その他の特殊性ゆえに軍部の一組織であるにも関わらず独自の影響力を持ち、ある種治外法権ともいえる権力を保障されている特捜隊を率いる隊長は、その特捜隊の自由さを象徴するかのようにフリーダムだった。なによりも、行動そのものが。

「あっれー? 花村、あんたなにやってんの?」
「おはよう、花村くん。今日も朝から元気だね」

花村がムダに広い特捜隊本部を走り回っていると、扉が開けっ放しになっていたトレーニングルームのほうから声をかけられた。

「あ? ああ、里中、天城」

振り返って声の主を確かめてみれば、そこには同じ特捜隊の隊員、里中千枝と天城雪子がいた。里中はトレーニング中らしく、上下ジャージといういかにもな姿で、片足を高く蹴り上げた体勢のまま静止している。そのバランス感覚は、他人事ながら見事としか言いようがない。
天城はそんな里中の邪魔にならない程度に少しだけ離れた場所で、ファイルを片手にこちらへ視線を向けていた。おそらくは、里中のトレーニングを眺めながら書類を片づけているのだろう。たしかに事務仕事を里中にやらせたところで、天城の手間が三倍に増えるだけだ。懸命な判断だと言わざるをえない。

それはともかく、せっかく探し人の手がかりを得られるかもしれない人間に会えたのだ。

「相棒知らね?」

とりあえず、花村はダメ元で聞きたいことを尋ねてみることにした。
さほどアテにはしていない。朝からトレーニングルームにこもっていたこのふたりが、他の人間の姿を見ているとは思えなかった。
案の定、やっと足を床に下ろした里中が首を傾げる。

「リーダー? 今日はまだ見てないよ。ね、雪子」
「うん」
「ですよねー」

里中に同意を求められた天城も、こくりとうなずいた。やはり、不発のようだ。これが、もし里中の姿が見えなければ天城に、逆に天城の姿が見えなければ里中に聞けば一発で行方がわかるのだが、さすがに相手が違うのでそうはいかない。

特捜隊では、二人一組の行動が基本となっている。いわゆる、バディシステムというやつだ。里中と天城は、そのシステムにのっとってコンビを組んでいた。
人数を集めて処理すればいいような案件はなにも特殊部隊に回す必要もないため、特捜隊は少数精鋭が基本になっている。だが、いくら少数精鋭でも、単独任務は危険が多すぎた。その点、二人であれば一人では見えないものも見えてくるし、お互いの苦手分野をフォローすることもできる。

……というのが、バディシステムが採用されている建前の理由だ。本音は、それでなくても個性が豊かすぎる問題児の吹きだまりである特捜隊、隊員をたったひとりで野放しにしておくとなにをしでかすかわからない、という部分にあるらしい。コンビを組ませることで、互いを助け合うと同時に牽制しあってもらう必要がある、というわけだ。そうでもしないと制御できない、と上層部に判断されたがゆえの方針とも言えた。

(まあ、実際そーだしな)

特捜隊に配属されてすぐ、花村はその奔放さに目をむいたものだ。今ではすっかり慣れてしまって、すでに違和感すら感じなくなっている。
むしろ、元の環境に戻れと言われても今さら無理な気がしていた。花村自身が、ここにいたいと心から思っている。

その花村の相棒は、他でもない特捜隊の隊長だった。そう、かなり優秀なうえに冷静かつ穏やかな性質という理想的な上司に見えるのに、フタを開けてみれば統合作戦本部に要観察注意マークをつけられるような特殊な能力持ちで、しかも特捜隊を象徴するかのように自由気ままに日々を生きているその人だ。

もちろん、隊長もただサボっているわけではないのだろう。本人なりの、理由があるはずだ。
なにしろ、毎日こうやって行方不明になっているというのに、仕事はなにひとつ溜まっていない。決裁されていない書類ひとつ、残ってはいないのだ。

(お偉いさんが押しつけてくる、どーでもいい案件以外はな)

仕事として舞い込んでくれば迷子の犬探し(その犬がじつはキメラだったりする可能性は多々あるが)だって先陣を切ってやるのに、なぜか連邦軍上層部が押しつけてくる点数稼ぎのような案件は、絶対に手をつけない。自分がやらないどころか、他の隊員たちにもやらせようとしない。そのまま、命令を受理できないと宣言して突っ返す。花村が特捜隊に配属される前から、ずっとそうらしい。

(……や、だから、俺が来ることになったんだってのはわかってんだけどさ……)

花村陽介『少尉』が、いきなり花村陽介『少佐』になった理由は、そこにある。
背中どころか、今となっては命すら預けている相棒にすら言えない、花村の秘密だ。……できることなら早々にそんな秘密から解放されて、堂々と相棒の隣に立っていたいというのに。

もう、そんな捨てたくてたまらない秘密を抱えたまま、二年もの月日が経っている。

「んじゃまー、俺はまた相棒捜しを再開しますかね……里中、今月はもうサンドバッグ蹴り破んなよ。予算オーバーだかんな」
「破らないっつーの!」

あまり見たくない方向に行きかけた思考を、里中をからかうことで花村は強引に切り替える。ありがたいことに、里中はあっさりそれに乗ってきてくれた。

「こないだ破ってたじゃねーか……つか、一週間も前じゃねえぞ」
「う、そ、それは……ちょっとした手違いで……いや、足違い? 勢い余って?」
「しょうがないよ。だって、千枝は伝説を作るんだもんね」
「で、伝説? え、なにが伝説? あたしが? なにを?」
「あー、相変わらずで平和だよなー」

もごもごと言いよどむ里中の横で、天城がきらきらと目を輝かせている。そんな天城の斜め上方向への通常運行ぶりに、花村がなんとなく平和さを感じていたときだ。

「あ、そうだ。リーダーには会ってないけど、たぶん一度本部には来てると思うよ? 部屋に痕跡があったから」
「へ?」
「もう、本部でやらないといけない仕事、片づけちゃったんじゃないかな」

突然、爆弾が落ちてきた。他でもない、天城から。
もちろん、花村の脳内平和も即座に終了だ。

「え、マジで?」
「うん、マジで」

天城の表情は、至って真剣かつ真面目だった。嘘をついている様子はない。というか、こんなことで嘘をついたところでなんの意味もなければ得もなかった。つまり、信じるしかないということで。

「ってぇことは、外に出ちまった、と……」
「そういうことになるよね、たぶん」

事態を把握して思わず頭を抱える花村に、天城の気持ち気の毒そうな視線が注がれた。

特捜隊の本部は、たしかにムダに広い。本部の建物も人数の割に広いが、特に他軍部施設との緩衝地帯の役割を果たしている庭と、その緩衝地帯の境界線の役目を果たしている林が、むやみやたらと広い。

とはいえ、たとえ広くてもまだ敷地内だ。一応、範囲は区切られている。
だが、外に出てしまったということは。
──なけなしの範囲が、全開放されてしまったということだ。

「……探してくる」

そうとわかれば、本部の中を探していてもおそらくはムダだろう。そう判断して、花村はきびすを返した。
花村が何度呼び出しのコールしても音沙汰なし、うんともすんとも言わないということは、見つけ出されるまで反応するつもりはない、という意思表示だ。だとすれば、受けて立たないわけにはいかない。

「おー、いってらー。がんばれー」
「あ、花村くん、りせちゃんにお願いして探してもらったらどうかな? 少しは範囲絞れるかもしれないよ」

背中にかけられた里中の声援と天城のアドバイスに応えて、花村はひらひらと手を振った。

「や、平気。外行ってるなら、それはそれで大体見当つくから」

それは、嘘ではない。強がりでもない。実際に、ある程度の見当はつく。
だが、花村にそう言わせたいちばんの理由は、別のところにあった。
……他の誰の手も、借りたくないのだ。こと、相棒のことに関しては。

「そっか。それなら、大丈夫だね。いってらっしゃい」

天城が、そんな花村の本音に気づいたかどうかはわからない。ただ、納得したようにうなずくと、笑顔で手を振ってくれた。
頭は良いが天然かつマイペースな天城のことだから、そのような他人が抱いている独占欲には端から意識が向いていない可能性も高い。ただ、自身の相棒に向ける感情の強さについていちばん理解してくれるのは、天城だろう。花村は、そうも思っている。

「でもさあ、なんでリーダー、毎日行方不明になるんだろ?」
「うーん? わからないけど、きっと花村くんに見つけてもらいたいんじゃないかな? リーダー、けっこうお茶目さんだから」
「そ、そっかな……? え、いや、それってどーなの?」
「毎日楽しそうでいいよね。千枝、私たちもやる?」
「え、いや遠慮します」

足早にエントランスへと急ぐ花村の背後から、そんなふたりのやりとりが聞こえてくる。

(んなわけねーだろって言えないとこがな……)

花村の相棒は、妙なところが子どもっぽい。日頃は特殊部隊の隊長として感心するほどのリーダーシップとカリスマを発揮するのに、こんな風に行方不明になってみたりもする。それも、おそらくは面白半分だ。

花村が必ず探しに来るとわかっているから、ふらっと行方をくらましたりするのだろう。その証拠に花村が来るまでは、本部内を脈絡なくふらふらしていることはよくあっても、敷地外にまで行ってしまうことはなかったらしい。

(まー、いいんだけどさ)

どちらかといえば、花村自身がそうであって欲しいと願っているのかもしれない。
だから、いくら行方不明になろうとも、音信不通になろうとも、構わなかった。どうせ、花村になら見つけることができるのだ。それを要求する相手が花村だけであるのなら、一向に構わない。『相棒』に誰よりも近しい特別な存在でいたい、もしかしたらそれ以上を求めているかもしれない花村の感情的には。

ただひとつ、無視しがたい大きな問題が立ちはだかっているだけで。
──それは、花村の立場が未だ、特捜隊をうとましく思う統合作戦本部から秘密裏に差し向けられた間諜である、という動かしがたい事実だった。