ヒースの王冠

3


「チャンス……って」
「お前が押しつけられた命令を遂行するには、絶好の機会だったと思ったんだがな」

あっさりととんでもないことを口にしてから上半身を起こして、那伎はぱちりと砂色の瞳を瞬かせた。
もう、いろいろつっこみたい。すべてを問いただしたい。

「知……って……」

だが、実際のところ花村が口に出せたのは、たったその一言だけだった。
まともに、舌が回らない。口の中が、カラカラだ。
那伎に、それを気にした素振りはない。地面に落ちたままの苦無には目もくれず、呆然としている花村へと腕を伸ばしてくる。

「まあな」

気づけば、伸ばされた手に頭を撫でられていた。まるで、落ち着けとなだめられているようだ。

「い、つから……?」
「ん? 最初から」
「って、最初おおお!?」

しかも必死に疑問を口に出してみれば、これまたとんでもない答えが返ってくる。
最初とは、どういうことだ。一体、なにがどうなっているのか。
というか、最初とはどの時点なのか。
……まさか、花村が特捜隊へと配属された、二年前から?

「情報部の、そうだな……まあ、個人的に繋がりのある同期がな、お前が配属される直前にないしょで教えてくれた」
「…………」

そのまさか≠ェあっさりと肯定されてしまい、花村はその場でがっくりとうなだれた。
しかも配属後ではなく配属前からなのであれば、本当に最初からもいいところだ。すべてを把握した上で、那伎は花村を受け入れ、今までずっと傍に置いていたということなのか。

もしかして、監視のために?
──だが、それもまた違う気がした。

「なあ、花村。俺は、お前のことが気に入ってるんだ」
「…………っ」

真顔で見つめられ、息が詰まる。那伎は、妙な悪戯をしたり意味不明な言動をすることはあっても、嘘はつかない。
今まで罪悪感に苛まれ続けた花村でも、さすがに那伎に嫌われていると思ったことはなかった。だが、面と向かってそう言われると、とっさになんの反応もできないくらいには、うろたえる。

おそらくは花村が抱えている感情のレベルが、「気に入っている」程度では収まらないからだろう。
それでも、やはり嬉しかった。どうしようもないほどに。

「お前が特捜隊のことを好きなのは知ってる。離れがたいと思ってるのも知ってる。どうせ、命令拒否したら俺の命を保障しないとでも言われたんだろ」
「……それ、も……知って、んの?」
「いや、想像。足立さんのやりそうなことだからな」
「…………」

まさに、そのとおりだ。そして、花村はそれに抗えなかった。
足立の脅迫に、屈した。那伎を完全に失ってしまうなんて、耐えられなかったから。

「だから、花村。お前、統合作戦本部とは手を切れ」
「え……っ!?」
「大丈夫、心配するな。お前のことは、俺が守ってやるから」

普段あまり動くことのない表情が、優しげな笑みを浮かべている。まるで、菜々子を相手に「お兄ちゃん」をやっているときのようだ。

(違う)

そんな、めったに見られない表情を惜しみなく見せてもらえるのは、嬉しい。那伎は淡泊だというわけでもないが、日頃は表情筋がサボリを決め込んでいるせいで感情変遷がほとんどわからなかった。

だが、花村は那伎にただ守って欲しいわけではないのだ。被保護者になりたいわけではない。お荷物になりたいわけでもない。
那伎の横に立って、肩を並べて、その上で彼の特別を独占したいのだ。できることなら、本来であれば異性に向けるべき感情まで、すべて。

「で……も」
「べつに、敵対してる国ってわけじゃない。同じ国の、同じ組織の中だ。特に問題なんかないだろ? 前の部署の上司に、しかも顔もロクに覚えてないヤツの言うこと、なんでいつまでも聞いてなきゃいけないんだ?」
「だ……けど、そんなことしたら、お前が殺され……!」
「バカだな、陽介。俺が、そう簡単に殺されると思うか? お前以外のヤツに」

まるで花村の心を察したかのように、那伎がにやりと不敵な笑みを浮かべた。
そして、花村の欲しい言葉をくれる。やはり、花村の心を読んだかのように。
そんなはず、ないのに。

「……那伎」
「それに、お前が俺を守ってくれるんだろう? 違ったか?」
「…………ちが、わない」
「俺がお前を守って、お前が俺を守る。なら、なんの問題もないだろ? お前が俺の背中を守ってくれるなら、これ以上なく安心できる」

ぐらりと、感情が──心が、揺れ動いた。
元から特捜隊に、というよりは那伎に傾いていたのだ。今だって、断固拒否したはずの命令を一瞬でも遂行しようとしたのは、那伎の命をなんとか死守するためだった。

その当人が、花村を必要としてくれている。求めてくれている。
花村がいることで、安心できると言ってくれた。
……これ以上の幸せなど、あるだろうか?

「大体、お前が俺に重傷を負わせたとする。そうなってみろ、統合作戦本部の連中のことだから、こぞってお前をつるし上げて犯人にするだけだ。そりゃあもう、聞いたこともないような疑惑とか罪状とか、てんこ盛りについてくるだろうな。軍法会議どころか、うっかりすればそのまま処分されるぞ」
「あー……ですよねー」
「で、そうなったら、俺は重傷でまともに動けない身体を引きずって、陽介を助けに行かなきゃいけなくなるわけだ」
「え、ちょ」
「さすがに、それはちょっと遠慮したい。それよりはお前と一緒に、来るかもしれない暗殺者を待ってたほうが楽だ」
「お前……なんつーか、どこまでも豪快だな。いつものことだけど」
「事実を言ってるだけだ」

なにひとつ、反論できない。反論しようとするだけ、もうムダなのかもしれない。
なにしろ、花村の感情が認めてしまっている。強固に主張している。

堂々と、誰に憚ることなく、なによりも自分自身の良心に咎められることなく、那伎の傍にいたいのだと。

「花村、そろそろ観念しろ。一応、これでも二年は待ったんだ」
「……那伎」

その、おそらくは好意ゆえに与えられた二年の猶予が花村の葛藤をより複雑怪奇なものにしたということを、那伎が理解しているかどうかはわからない。

「お前になにもしてくれないで、ただやりたくもないことを押しつけてくるだけの統合作戦本部なんて捨てて、俺のものになれ」

ただ──吐息さえ感じ取れそうなほど近くでささやかれたそれは、まるで花村を口説き落とすための殺し文句のようで。

「……わかった」

一瞬で、心は堕とされた。理性も、そのうちついてくるだろう。
だとすれば、もうためらう要素など、ひとつもなかった。

「俺はもう、統合作戦本部の人間じゃない。お前に背中を預けるって、他のなにを捨ててもお前についていくって、そう決めた。俺は一生、お前のものだ」
「ああ」

そして──もう、そこで止めることもできない。
目の前の身体に腕を伸ばして、抱きしめる。那伎は、抵抗ひとつしなかった。

かわりに、どちらかといえば抱きしめるというよりは抱きつく、しがみつくといった体勢になってしまった花村の背中に手を回して、優しく撫でてくれる。背は、わずかとはいえ那伎のほうが高いのだ。仕方がない。

そんな密着した状態で、花村は自分の本心を吐露する。

「だから……お前のことも、俺にくれよ。全部、くれよ。お前の特別もなにもかも、全部くれ。独占できてないと、気が変になる」

──どうしてだろう。
なぜか、気持ち悪がられるとか、拒絶されるという可能性は、少しも脳裏に浮かばなかった。

「上出来だ」

そして、花村の予想は当たったようだ。顔は見えないまでも、聞こえてきた那伎の声は、どこか機嫌が良さそうだった。

「お前が開き直るのを、ずっと待ってたよ。こっちの意味でもな。陽介」
「ええっ!?」

結局、花村は那伎の罠に、最後の最後まではまり続けていたようだ。
あ然としながら顔をあげると、そこでは那伎がなにかりやりきったような晴れやかな笑みを浮かべていた。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

だとすれば、遠慮する必要もない。
那伎の背に回していた手をそろりと首の後ろまで動かして、花村はためらうことなく那伎の唇に唇を重ねる。

──もちろん、拒否などされるわけがなかった。
ただ、花村がその後の主導権をしばらくの間那伎に握られていたのは、言うまでもない。