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#22


「悠。手」
「え?」

朝、ぼんやりと日が昇り始めた頃に稲羽市立病院を出てから、俺はすぐ隣を歩いていた悠に向かって手を差し出した。正確には、悠の右腕をつかもうとした。

「陽介?」

俺がそういう行動に出るとは予想していなかったようで、悠はアーモンド型の目をぱちぱちと不思議そうに瞬かせている。意図がつかめないせいか協力的ではないものの、特に拒否する様子もなかったので、これ幸いと悠の右手首をつかむと手を開かせた。
そこにあったのは、真っ白な包帯に包まれた手だ。

悠は、全体的に色素が薄い。髪や瞳だけじゃなくて、肌も当たり前のように白い。そのせいか、いつもなら手のひらにほんのわずか血管が透けて見える。
とはいっても、悠は身体が弱いわけじゃない。一般人より色は白くてもかなりガタイはいいし、筋肉だってムダなくしっかりついてるし、稲羽に来てからは俺が知ってる限りじゃ風邪ひとつひいたことがない。つまり、文句のつけようがない程度には健康だってことだ。そういう意味では、俺よりよっぽど頑丈な気がする。そういえば四月頃、連日テレビの中に入る必要があったときも、ぐったり疲れてた俺を後目に悠はひとり平然としていた。

──悠の右手に巻かれた包帯が気になってしまうのは、だからこそなのかもしれない。
今までだって、テレビの中で怪我をすることは何度もあった。ただ、テレビの中と外はやはりいろいろと勝手が違うのか、怪我をしてもペルソナの回復スキルである程度治療しておけばテレビの外に出ると同時に傷跡すらきれいさっぱり消えていたので、そもそも気にする必要がなかったのだ。

だけど今日は、回復スキルで傷を癒す余裕すらなかった。テレビの中で意識を失った菜々子ちゃんを、急いで病院に担ぎ込む必要があったからだ。テレビの外に連れ出しても、なぜか菜々子ちゃんは目を覚ましてくれなかった。
そして、生田目はただの人間のはずなのに、なぜかあのとき大型のシャドウのようなものに姿を変えていた。俺たちに倒された後に元の姿を取り戻していたが、元の姿に戻ったときにはすでに気を失っていて、それっきり意識を取り戻していない。

テレビの中に落とされたのにシャドウが出なかった菜々子ちゃんも、シャドウが出るのではなくむしろ本人がシャドウに乗っ取られたような状態になっていた生田目も、そういう意味では状況的に今までとはまったく違っているのかもしれなかった。なんというか、菜々子ちゃんと生田目を同じカテゴリには入れたくないはないが。

ちなみに、さっき戦ったあの生田目のシャドウみたいなものは、クニノサギリという名前だったらしい。りせが教えてくれた。
そんなことまでわかるりせのペルソナの能力に思わず感心すると同時に、なんであいつだけ今までみたいに誰々の影っていうわかりやすい名称じゃなかったのか、それにも少し疑問を抱いた。生田目のシャドウというわけじゃなかったんだろうか。よくわからない。

まあ、なんで今そんなことを考えているかっていうと、やっぱり戦いの後にまったく余裕がなかったせいだろう。そう、考えにふけるどころか、焼けただれてしまっていた悠の手のひらに回復スキルを使うことすらできなかった。
呼びだしたペルソナカードを自力で握り潰すことすらできないほどの、酷い火傷。それに気づいたのは、菜々子ちゃんが稲羽市中央病院のICUに運び込まれてからだ。しかも、病院の看護師さんに火傷の存在を指摘されるまで、本気で誰もそれを意識していなかった。
おそらく、悠本人以外は誰ひとりとして。悠は気づいてはいても、菜々子ちゃんに意識がいっていたからあえて無視していたんだと思う。

菜々子ちゃんが収容されたICUの前から動こうとしなかった悠が、半ば強引に処置室へと引っ張っていかれる後ろ姿を見送りながらどうしようもないくらい衝撃を受けていた自分自身を、俺は忘れられない。悠の火傷に気づかなかったのは他でもない俺なのに、そのことがかなりショックだった。

「……痕、残らないといいけどな」

焼けただれていたのは、右の手のひらだ。いくら治療済みで包帯が巻いてあるとはいえ、まさか火傷の傷を触ってしまうわけにもいかないので、そろそろと伸ばした指先で手の甲のほうに触れてみる。包帯に阻まれているのもあって、いつもの慣れた皮膚の手ざわりではなくざらざらとした感触が伝わってきた。

手が熱を持っているのか、包帯越しでもやや熱さが感じられる。火傷のせいで、熱を持っているのかもしれない。
いつもは俺より、ほんの少しだけひんやりしているのに。

「痕って……ああ、もしかして火傷か?」

俺に手を預けたまま、悠はのんきにそんなことを言っている。つい先刻までの、せっぱ詰まった様子が嘘のようだ。
悠が落ち着いてくれたのは、いい。それには、俺もホッとした。そうさせたのが俺じゃなかったのはちょっと悔しいけど、そこはまあしょうがないとわかっている。

でも、病院の看護師さんが見つけた途端に血相変えるような怪我はさっさと思い出して欲しかったし、なによりもそれに気づかなかった俺自身がいちばん腹立たしい。

「他になにがあるんだよ。派手に焼けちまってたのに、ずっと放置しやがって」
「菜々のことに子に必死で、忘れてた。ペルソナカード握りつぶせなかったときは少し焦ったけど、なんとかなったし」
「なんとかなった、じゃねえだろ。ったく……」

終わりよければすべてよし、たしかにそうなのかもしれないけど、すっきりそう割り切るのはなかなか難しかった。こうして残ってしまった悠の傷は、そんな割り切れなさの象徴みたいなものなのかもしれない。
操られて自分の意思とは関係なく勝手に身体が動くなんて、しかもペルソナを使われるなんて思わなかった。目の前で悠がクニノサギリに操られたのを目の当たりにしていたはずなのに、俺たちもそうなる可能性を完全に見落としていたとか、どれだけテンパってたのかっていう話だ。結局はジライヤの放った力が悠を傷つけようとしたのを、ただ見ているだけしかできなかった。あの怪しげな赤い輪のことを思い出すだけで、忌々しい。

──悠の火傷は、操られて自由動けないはずの身体を意思の力だけで無理矢理動かして、悠が操りの赤い輪を破壊した名残だ。もちろん、自力で。
あのとき、もし悠が身体の自由を取り戻せなかったら、菜々子ちゃんの命はなかったかもしれない。無茶でもなんでも、あの輪を壊すことができてよかった。

ただ、そう思うたびに、脳裏をよぎってしまうこともあるわけだ。
なんだかんだ言ってあのとき、俺はなにもできなかったんじゃないかって。いや、本気でなにもしなかったわけじゃないけど、悠の役に立ったかといえばかなり怪しい。
悠は自力で操りを解除した後、俺たちを操っていた輪を壊してくれたのに。

「…………」

結果として、ますます落ち込んでいくわけだ。俺が落ち込んでいてどうする、とわかっていても止められない。
──なにが悔しいって、結局は目の前で悠が傷を負ったことにいつまでも気づけなかったこと、そのものだ。命を賭けた戦いをしている以上、傷を負うのは仕方がないにしても、せめていちばんに気づきたかった。

相棒、なのだから。

「陽介? どうしたんだ」
「……あ」

気遣うような悠の声に気づいて、俺はいつの間にかうつむいていた顔を上げた。よく見たら悠の手を握ったまま、自分の世界に入り込んでしまっていたようだ。
強く握り込んでしまわなかったのが、せめてもの救いな気がする。この状態で力を込めたりしたら、大惨事だ。
でも、そのままその手を離してしまう気にはなれなくて、もう一度そっと撫でる。おとなしく手を預けたままにしておいてくれている悠の心の広さに、感謝したい。

「いや……なんでもねえよ。これ、痛そうだなって思ってさ」

だから、せめてこんなどうしようもない心の内は秘めておくことにした。悠にぶつけたところで、なんの意味もない。今、この状況にいちばん打ちのめされているのは、間違いなく悠なのだ。菜々子ちゃんが運び込まれたICU前の廊下で、ずっと自分を責め続けていた姿は忘れられない。
悠のせいで菜々子ちゃんがさらわれたなんて、そんな風に考えてるヤツはどこにもいないだろう。堂島さんだって、そんなこと思ってないはずだ。
でも、こういうのは誰にそう言ってもらえたところで、自分自身が納得できなければなんの意味もない。それは、俺にもよくわかっている。

結局、悠に限らずみんなの中に次から次へと沸いてくる後悔のせいでマイナス方面に傾きかけていた空気をぶち破ってくれたのは、完二だったわけだが。
あいつはホント、たまにやたらと格好いいと思う。やけにごつくてヤンキーな外見はともかくとして、日頃はもののみごとなオトメンなのに。

……少しだけ、うらやましい。

「手当してもらったから、そんなに痛くないぞ。範囲が広いから、大げさに見えるだけだ。陽介は心配性だな」

悠の左手が、なだめるように俺の肩を叩く。どうやら心の底から大したことないと思ってるようで、それが声にも表情にも如実に表れていた。
とはいえ、さすがにそれに同意するわけにはいかない。

「おい、そんなこと言って無理すんなよ。しばらく右手使うなって、看護師さんにも言われてただろーが」
「あー……うん。でも、それだと不便だし」
「おいこら。目、逸らすんじゃねえよ!」

やっぱり、看護師さんの言いつけは思いっきり破るつもりらしい。それじゃ治るもんも治らなくなると説教しようとして、はたと気づく。
今、この状況において右手を使うことを禁止された悠がいちばん困るのって、勉強でもなんでもなくてじつは家事なんじゃないだろうか?
家に誰かいれば、ちょっとしたことでも代わりにやってもらうことができる。でも、悠の家には今、誰もいない。堂島さんも菜々子ちゃんも、入院中だ。

なのに悠は、ひとりであの家に帰るのか。
菜々子ちゃんを助けるために負った、あの火傷を眺めながら。

「しょうがねえなあ……じゃあ俺、今日は悠の監視しに泊まりに行くわ。いいか、右手使ったら即説教するからな。使う前に俺に言うこと! はい、わかったって言いなさい」
「え」

気づいたら、そんなことを口にしていた。一瞬、なに図々しいこと言ってんだって自分で自分にツッコミしかけたけど、本気でそう思ってたのでそこは考えないことにする。
悠のためとかそんなんじゃなくて、俺が悠をひとりにしておきたくなかった。こっそり右手を使ったりしないように監視しに行くとか、ただの口実だ。そこもすごく心配だけど、あくまでもメインじゃない。

いきなりそんなこと言われた悠は、当然のことながら目を丸くして驚いている。アーモンド型の猫みたいな目がぱちりと瞬いたと思ったら、じっと俺を見つめてきた。
……いい加減に慣れてきたとはいえ、やっぱりこんな風に真っ正面から見つめられると、どうにも照れる。男同士でなにをって言われそうだけど、そもそも俺は悠のことが友情以上の意味で好きなんだからしょうがない。こんなときにそんなんで浮かれてんなって言われそうだから誰にも言ってないし、他の誰かに気づかれてもいないだろうが、俺が俺自身の本音を無視することは無理だ。前はできてたけど、今はもうやろうとも思わない。

ただ、言葉は多くないけど無心に目で語るタイプを地でいってる悠の視線にいつまでもさらされているのはいろいろな意味で自殺行為なわけで、耐えきれずについ視線を逸らそうとしたときだ。

「……ほんとに?」
「へ?」

うっかりすると聞き逃しそうなくらい小さな声で呟かれて、一瞬耳を疑った。
正直なところ、自分でもウザイこと言ってるなとは思っていたわけだ。悠のためとか言ってるけど結局は自分がそうしたいだけだってことを、俺は誰よりもよく知っているからなのかもしれなかった。

悠は優しいから、俺の主張を無下にはしないだろう。でも、もしかしたらこんなときだからこそ、ひとりでいたいと思うかもしれない。俺が知ってる悠はあまりそんなこと言い出しそうにはないとはいえ、俺は悠じゃないから悠の望みを百パーセント理解できているとは言い難かった。

でも、今の呟きは、なんて言うんだろう。
まるで、迷子になった子どものもの呟きみたいに、力なく聞こえた。

「いや、なんでもない。気にしないでくれ」
「おい、悠」

俺が耳を疑って固まっている間に、悠はなにか別の答えに行き着いたようだった。ふるふると首を左右に振って、なにかを否定しようとしている。でも、その反応こそが、俺にさっき聞こえた呟きは幻聴でもなんでもなくて現実の言葉だったんだって確信させてくれた。

あれが悠の本心なら遠慮なんてしない。悠がひとりでいたくないと少しでも思っているのなら、その欠片をほんの少しだけでも俺に見せてくれたなら、全力で叶えるだけだ。
大体、それはそもそも俺がやりたかったことなんだから、なんの問題もなかった。
──そう、悠が遠慮する必要なんて、どこにもない。

「べつに冗談じゃないからな。行っていいなら、行くっての。今日はバイトもないし、ちゃんと悠の世話してやるよ」
「陽介」
「ただ、俺料理とかできないし、悠にさせるわけにもいかねえし、メシはどっかで買って帰るしかないけどな、そこは我慢しろよ。かわりに、力仕事とか他のことはちゃんと面倒見てやるから」
「でも」
「いいの。俺が、そうしたいの」

たたみかけるように言えば、悠がぱちぱちと何度も目を瞬かせる。ほんの少しだけ迷うような素振りを見せて、でも次の瞬間に悠は頷いていた。

「……じゃあ、頼む」

そう、嬉しそうに笑いながら。

「ほんとは、ひとりで家に帰るの……少し、怖かったんだ」

そして、こぼれ落ちたのは悠の本音。
稲羽に来てからずっと、あの家で堂島さんと菜々子ちゃんと一緒に暮らしてきた。本当の家族になれたと、嬉しそうに教えてくれた日のことはよく覚えている。
そんな家族の思い出が詰まった家にたったひとりで帰るのは、寂しくて当たり前だ。誰も迎えてくれないどころかしばらく帰ってくる予定すら立っていないなんて、どれだけ足元が心許なくなることか。

俺には、そんな経験がない。想像するしかできない。
だからこそ、悠がこうやって俺を頼ってくれるなら、全力で応えたい。相棒として、親友として、そしてそれ以上の感情を抱えてしまっているからこそ。

「任せとけ。ひとりのがマシだってくらい、騒がしくしてやるから」
「はは、よろしく……あふ」

俺の軽口に相好を崩して笑っていた悠の口からもれたのは、小さな欠伸だった。
そういや、完全に徹夜だった。しかもテレビの中にまで入って、その後病院の廊下で夜明けを迎えたわけだ。いろいろありすぎて今まですっかり忘れてたけど、悠も俺も疲れていないわけがなかった。

「じゃあ、まずは」

悠の肩に、腕を回す。そのまま身体ごと引き寄せて、俺は歩き出した。
幸い、今日は日曜日だ。学校に行く必要はない。と、いうことは。

「帰ったら、とりあえず寝るか」
「ああ」

あっという間に、帰ってすぐやるべきことが決まる。
メシをどうするかとかは、とりあえず起きてから考えよう。家事なんてまともにやったことはないし、正直なところ役に立つとは思ってないけど、俺がいれば少なくとも悠の目が覚めたときにひとりじゃないことは実感できると思う。たったそれだけでも、俺が悠の支えになれるならそれは嬉しいことだ。

それこそ、起きたら一緒に買い物にでも行けばいい。愛家で食ってくるのも悪くない。
他人のことには一生懸命になるくせに、自分のことは深刻なことこそ後回しにして無意識にため込みがちな悠が少しでも楽でいられるようにしたい。それが、今の俺の願いだから。

せめて菜々子ちゃんが意識を取り戻して、悠が安心できるまでは。