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#12



いくら名前を叫んでも、通じなかった。反応はなかった。

なにも含まれていない、本当に空っぽな声が、あいつを呼んでいた。「なにもない」と、「仲間なんて幻、きみもひとりだ」と、「絆なんてない」と、聞いているだけで腹が立つようなことを言っていた。あいつの意識はその声に絡め取られて、息をすることすらままならないようだった。
あの真っ白な壁の向こうでなにが起こっていたのか、俺に正確なところはわからない。あいつを追い詰めようとしている、おそらくは久保のシャドウの声しか聞こえなかった。光の壁の向こうは、なにも見えなかった。

「悠!」

ただ、ひとつわかっていることがある。あいつは──悠は、俺の呼びかけに応えてくれた。それまでに呼び慣れ、そして聞き慣れていたはずの「鳴上」という名字ではなく、何度か呼んでみようとしたものの結局は気恥ずかしくて口に出せたことのなかった、「悠」という呼びかけに反応してくれた。

なんで、あのときにその名が口をついて出たのかはよくわからない。虚無、絶望、そして哀しみ、そんな負の感情で悠を押しつぶそうとしていた久保のシャドウなんかにあいつを渡してたまるかと、ただそれだけを強く思った気がする。
たとえ悠が俺たちを──俺のことをいらないと言ったところで、離すつもりはなかった。でも、あいつは俺が「悠」という名前を呼んだことをきっかけにして、やっとこちらに意識を向けてくれた。気づいてくれた。
伸ばせと叫んだら、手を伸ばしてくれた。だから、一方通行だとは思わない。

「ありがとう、陽介」

やっと助け出せたとき、あいつはそう言って花がほころぶように笑ってくれた。今まで見たことがないくらいにやわらかくて、嬉しさがにじみ出ている笑みだった。
あいつが俺の名前を呼んで、安心したように笑ってくれたことが嬉しかった。俺もこいつの助けになれるんだって、そう思えた。

──なによりも。
強く、すがるように俺の手を握ってきた指の強さを、忘れることができない。



「なあ、悠」
「? どうした?」

なんとなく名前を呼んでみたら、ものすごく真剣な顔でボウルに玉子を割り入れていた悠が顔を上げた。ぱちりと目を瞬かせて、こっちを見る。
ちなみにここは、堂島さんちの台所だ。昨夜、打ち上げという名のオムライスパーティー(結局、マトモに食えたのは悠が作ったヤツだけだった。でも、悠のオムライスはびっくりするほど美味かった)をやるために大人数で押しかけたばっかりだけど、俺は懲りずにまた足を運んでいる。今日は、真っ昼間からひとりで。
クマには内緒だ。そもそも、クマは今頃シフトをびっちり入れられて、ジュネスで勤労少年をしているはずだった。俺はべつにさぼってるわけじゃない。もとから、今日のバイトは休みだったりする。

堂島さんち、すなわち悠が住んでいる家には、今日は悠しかいなかった。
菜々子ちゃんは、今日は昼飯の後から友達の家に遊びに行っているらしい。昼飯なに食ったのって聞いたら「今日はカップ麺」って返ってきた。驚くことなかれ、基本的に堂島家の食生活は総菜弁当が中心だ。昼がカップ麺でも、なにもおかしくない。

で、昼飯はカップ麺ですませたこいつが今なにをしているのかというと、どうやら遊びに行っている菜々子ちゃんのためにおやつを作っているらしい。なに作るのか聞いたら、プリンだって答えが返ってきた。

「プリン……って、え、手作り? つか、プリンって家で作れるもんなの?」
「作れるぞ」
「マジか。いいなー!」
「陽介も食べるか?」
「えっ。マジで。いいの?」
「一度に四つくらいできるしな。食べていくといい」
「よっしゃああああ!」

……というわけで、俺もご相伴させてもらえることになっている。
とはいっても俺には料理のスキルなんてないし、ヘタに手を出したところで邪魔になるだけだってわかってるので、悠がプリンを作るところを食卓の椅子を陣取ってわくわくしながら見守っていた。

玉子を割る悠の手つきは、料理なんかまったくしない俺が見てもよくわかるくらい、慣れたものだ。
なのにその顔つきはびっくりするほど真剣で、お前これからどっかに殴り込みに行くつもりなのって思わず聞きそうになった。でも、真剣なのに目に浮かぶ光はとっても優しくて、菜々子ちゃんのために本気も本気なんだなって思うとなんだか微笑ましい。

ただ、微笑ましさを満喫しながら和んでいるはずなのに、なぜだかちくりと心を刺す針のようなものもあった。嫌なモノじゃないと思うのに、妙に気にかかる。
特に用があるわけでもないのに悠の名前を呼びたくなったのは、そのせいかもしれない。
実際、悠の視線がボウルから俺のほうに向いたら、そのちくりとしたものはあっというまにどこかへと消え失せた。
日頃は表情筋がさぼりを決め込んでるだけで、実際のところはけっこう感情を豊かにあらわしている眼差しが、不思議そうに俺を見つめている。

そこで、小さな針の正体がわかってしまった。
……つまり、なんだ。俺は、うらやましかったんだと思う。
悠にまっすぐな親愛の情を向けられている、菜々子ちゃんが。

「や、なんでもない」
「……陽介?」

──いやもう、自分でも呆れるくらいにガッカリっただ。いくら親友で相棒だからって、その家族にやきもち妬くとかどうなんだ。
いや、べつにものすごく深刻なってわけじゃなくて、ごくごく単純な「いいなー」レベルのモノだと思うんだけど、それにしたってそんなこと無意識のうちに考えてた俺の思考回路にツッコミを入れたい。
大体それって、こいつが俺の両親のこと「いいなー」って思うのと同じなわけだ。どうしたってありえない。
いや、でも、こいつがそんなこと思ってたりしたら、ちょっと嬉しいかもしれない。
たとえば、だ。両親をクマに置き換えてもいい。

「…………」

そこまで考えてから、改めて我に返った。その妄想はちょっとどころかかなり俺を幸せにしたが、最初に自分で自分に突っ込んだとおり、どう考えてもありえないことだ。

百歩譲って、そんなこと思っちまう相手が学校の友達とかだったとする。それなら、そこまで問題ないはずだ。他のヤツと仲良くしてるとこ見て、俺の親友取るなよって心の隅でぶちぶち思うくらいなら許されると思う。でも、たぶんそれと同じくらい、俺の親友すげえだろって自慢する気持ちも湧いて出るわけだ。
でもって、里中とか天城とか、いわゆる仲間連中だったとしてもたぶん平気だろう。大体あいつらの場合は、久保のシャドウと対峙したとき、全員なんの文句も言わなかったどころか当然だって勢いで俺を悠の救出に向かわせてくれたことからもわかるように、俺が悠のいちばん近くにいるってわかってくれている。そのことがものすごく誇らしくて、だからこそなにを失うことになっても絶対に悠を連れ戻すって思えたものだった。
りせちーの悠へのアプローチはいつ見てもド直球ですげえなって感心するけど、当の悠がまったく気にしていないどころか気づいてすらいないようなので、微笑ましいだけだ。俺、けっこうなりせちーファンのはずなのに、そのへんはまったくやきもきしたりしていないのが不思議だった。

つまり、どういうことだ? 悠に近い相手にほど、「いいなー、うらやましいな」という感情を抱くわけか。
──どうしよう、本格的に末期かもしれない。親友にそんな独占欲抱いてどうする。
いや、親友だからいいのか? わからなくなってきた。
鍋の様子を見ていた悠の背中をじっと見つめてみたら、視線を感じたのか悠がくるりと振り向いた。

「陽介?」

俺がいろいろ考えている間に、いつの間にかプリン作りの下準備は終わっていたようだ。鍋に蓋をしてから、悠は椅子を引いて俺の向かい側に座る。
まっすぐに俺を見つめてくる目の色は、薄いのに深い。
俺のことを見て、俺のことを考えてくれているのかなって思ったら、心臓のあたりがありえない感じにきゅっとした。
……この感覚、困ったことに覚えがある。

「どうしたんだ?」
「……いや、そっとしておいて……」

そういえば「そっとしておこう」はこいつの口癖だったっけ。逃避だってわかってはいたけど、ついそんなどうでもいいことに思考を飛ばしながら食卓に突っ伏した。

「よ、陽介?」

ぺしゃんと潰れた俺を目の当たりにしてあわてたのか、頭の上で悠があたふたしているのがわかる。ああ、こいつがこんな風に焦ってるのって久しぶりに見たかも。
でも、前に見たのっていつだったっけ? スペシャル肉丼を前にしても泰然と(意味のわからないことを)言っていたヤツだから、たぶん過去一度か二度見ただけだと思う。

「…………」

で、いつそんな悠を見たのか考えてしまって、俺は見事に墓穴を掘ったことを痛感した。
よりによって、あれだ。海老原のときだ。
悠は付き合ってたわけじゃないって断固否定してたけど、どう見てもそうとしか見えないようなことになってた頃、あのときに目撃したので間違いない。勢いよく駆け寄ってきた海老原に腕をつかまれて、ずるずると引きずられていった悠の姿が脳裏に蘇った。
せっかくの優越感が、泡のように溶けて消えていくのがわかる。そもそも、悠を焦らせたことに優越感を抱くという事実そのものに、この上なくツッコミたい。

「疲れてるのか?」

混乱している意識の合間を縫って、するりと耳に穏やかな声が滑り込んでくる。途端に、とっちらかっていた心がおとなしくなった。
ふわりと優しく髪を撫でられて、頭のほうも落ち着いてくる。甘やかされてるなっていうのが、ものすごくわかった。今までもたまに感じていたけど、今日はより顕著だ。

ド天然だけど、悠は人の感情の機微には敏い。だから、誰かが落ち込んでたりなにか悩んでいたりすればすぐに気づく。そして、手を差し伸べる。
本人には、すごいことをやっている自覚なんて少しもないんだろう。
それが誇らしくて、でも危なっかしい。ただ、今はそれだけではなくてもうひとつ、俺の心の中へと食い込んできたものがある。
安堵に満ちた、笑み。強く握られた、手。
それらは今、俺の中でたぶんいちばん大切なものだ。
さっき思い出してしまった、困ったことに覚えがある感覚よりも、たぶん。

「……や、そういうわけじゃないと思う」
「そうか? 寝てていいぞ」

よしよしと、まるで子どもを相手にするときみたいに撫でられた。もしかして、こいつの中で俺は菜々子ちゃんと同列だったりするんだろうか。それはそれで切ない。
さっきは菜々子ちゃんのことがうらやましいと思ったりしたくせに、やはり菜々子ちゃんの立場になりたいわけではなかった。俺はこいつの親友で、相棒でいたい。対等でいたい。
日頃は対等どころか頼りっぱなしなことが多くても、いざというときにはいちばんに悠に頼ってもらいたい。俺がいるから安心だって、笑ってもらいたい。一昨日のように。

あのとき、久保のシャドウに囚われていた悠に一体なにが起こっていたのか、詳しいことは聞いていない。
聞きたくないといえば嘘になる。本当だったら、根掘り葉掘り聞き出したい。なんであんな絶望と哀しみ底にいたのか、知りたい。その上で、悲しむ必要もなければ絶望することもないんだって、抱きしめたい。

でも、悠はあの後、もう大丈夫だって言っていた。ちょっとだけ探りを入れた俺に、幸せそうな笑顔を見せてくれた。
だから、それ以上聞けなかった。悠に、また苦しそうな悲しそうな顔をさせたくなかっただけかもしれない。

「……なあ、悠」
「うん?」

突っ伏していた顔を上げると、すぐそこに悠の顔があった。優しげな、穏やかな笑みを浮かべて、飽きもせずに俺の頭を撫でている。本気で寝かしつけるつもりなんだろうか。

あの日、久保のシャドウを倒した日から、ひとつ変わったことがあった。悠の表情がやわらかくなった、と思う。
正確には、笑顔を惜しまなくなった。他の表情はまだあまり見かけることはないけど(でも今日焦り顔は見えた)、ここ三日くらいでかなりいろんな種類の笑顔を見た気がする。
その顔を見れば、一目瞭然だ。聞くまでもないかもしれないけど、確かめてみたかった。

「今、幸せか?」
「うん」
「悲しかったりしないか? 寂しくないか?」
「ないよ」

返事は、よどみなかった。即答だった。
悩む必要なんかないと言いたげに、優しく笑ったまま、悠は首を傾げる。
そして、謳うように言葉を続けた。

「陽介たちがいるから、大丈夫」

くしゃり、と髪の中に指が差し入れられる。また三つ編みしたいと思ってるのかな、なんて思いながら、俺は心地良さに目を閉じた。

ああ、できれば「陽介たち」から「たち」を除外してほしい、なんて。
悠の言葉に感動して喜んでいる理性の裏で、そんな贅沢をぬかしている本能がいる。なんとか抑えつけようとしてみたけど、ちょっと無理そうだ。無自覚じゃないからシャドウにはならない気もするけど、結局のところ抑圧すれば、それはきっとペルソナに影響だってしてくるんだろう。

ペルソナは、心の鎧。精神状態が均衡を欠けば、なにかしらの影響は出てくる。
事件の犯人は、もう捕まった。この先、テレビの中に入る必要はない。
だから、ペルソナに頼ることはもうないんだと思う。でも、シャドウとペルソナの存在を知ってしまった以上、自覚してしまったことを無理矢理抑えつけるという選択肢はどうしても選べなかった。
気づかなかったらよかったのかもしれない。でも、そんなこと言ったって気づいてしまったのだから仕方がない。
目を開けると、そこにはやっぱり悠がいた。その瞳に視線を合わせて、一言一言確かめるように言葉を繋ぐ。

「お前の後ろには俺がいる。お前の背中は俺が守る。だから、たまには頼りにしろよな」

親友で、相棒でいたい。なによりも優先したいその気持ちを、今は全面に押し出した。
その裏にある本能に近い感情を、否定するつもりはない。でも、今はまだ、表に出すつもりもない。
今は、こうやって惜しみなく笑みを向けてもらえるだけで、嬉しい。こいつを笑わせることができるようになったんだって、そのことが俺の誇りだ。

「陽介のことは、いつでも頼りにしてる」

嬉しそうに破顔されて、耳のあたりに熱が集まる。やっぱり、本能は元気だ。
完二のダンジョンにあれだけ拒否反応示してた俺は一体どこに行ったんだろうって、どこか遠いところで思った。