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#07


「なんとか、なったな」

よろめきながら巽屋の中へと消えていく巽完二の後ろ姿を見送りながら、俺は詰めていた息を吐いた。もちろん、安堵でだ。

テレビの中から助け出した後、天城はしばらく体調を崩して学校を休んでいた。影にずいぶんと痛めつけられていた完二も、おそらくは天城と似たような状態になるんじゃないかと思っている。
もしかしたら、天城よりも受けたダメージはデカいかもしれない。なんせあいつは、自分のシャドウを自分の拳でぶちのめしちまったくらいだ。反動が来てもおかしくない。
大体、あんなにガタイがよくて、しかもひとりで暴走族を潰したようなヤツが、俺と鳴上の肩を借りなきゃ家に帰ってこられなかった。それだけでも、相当なことだろう。

「ああ」

隣に立っていた鳴上も、じっと今は誰もいない巽屋の店先を見つめている。
その顔には、よく観察しないとわからないとはいえたしかに心配の色が浮かんでいて、俺はわざと明るく鳴上の肩を叩いた。

「お袋さん、完二の顔見れば安心できるよな」

理由は、よくわからない。ただ、こいつのそんな顔をずっと見ていたくなかった。
テレビの中に放り込まれて憔悴しきっていた完二のことを心配していただけで、べつに不安に駆られてるとか、そういうわけじゃないってことはわかっている。それなのに、どうしていてもたってもいられなくなったのか、我ながら不思議だ。

「うん、たぶん」

そんな、画策とも言えないような小細工でも、一応効果があったらしい。少しだけ、鳴上の表情が和らいだ。アーモンド型の猫みたいな目をぱちりと瞬かせて、こっちを見る。

本人が自覚してるかどうかはわからないが、鳴上には話している相手をじっと見つめる癖があった。ほんとにまっすぐ見つめてくるので、最初の頃は少しうろたえたもんだ。これがまた、けっこうすぐに慣れたけど。
言葉が少ないかわりに、鳴上は目で語る。
……さっきは自覚があるかどうかわからないって言ったけど、前言撤回。
たぶんこれ、鳴上本人に自覚はない。

「ちょっとへろへろだったけど、そのうち復活すんだろ」
「学校出てこられるの、いつだろう」
「天城のときのこともあるしなぁ。ちょっとはかかるんじゃないか、やっぱ」

自分自身のシャドウと対峙したことのある俺には、なんとなくわかった。自分自身の抑圧した心が、抑圧されすぎたせいで変な風にねじまがった結果生まれたシャドウという存在を前にすると、それだけで力を吸い取られるような感じになる。
その上でこれでもかと、本当だったら聞きたくない、見たくないことを突きつけられることになるわけだ。そりゃあ、精神力もあっという間に底をつく。

しかもあの空間に満ちた霧は、妙に人間を疲れさせた。クマから渡されたメガネをかけるとだいぶ緩和されるのが不思議だが、そもそもあそこは人間が長い時間いられる場所ではないんだろう。
そんなところに意識のないうちに放り込まれ、長い時間閉じ込められたあげく、無意識のうちにあんな広大で複雑なダンジョンまで作り出すことになったら、少々寝込んだところで仕方がない。

「……でも、助けられたんだよな」
「おう」

確かめるように呟いた鳴上の肩を、もう一度軽く叩く。今度こそ、その表情はほっとしたように笑み崩れた。

「よかった」
「んだな。俺たちも全員、無事だったし」
「うん。あちこち、べたべたしてるけど」
「あー……」

そういや、そうだった。いくらダンジョンのテーマが風呂場っていうか、いわゆるその、どう見たってハッテン場だったからって、あそこで足止めのためとはいえローション責めにされるとは正直思わなかった。本気でつるつる滑って、立ち上がるどころじゃなかったからたまらない。

なんていうか、いわゆる健全な精神を宿す高校生男子としては大変おいしいモノも見られたわけだが、自分たちまでローションでつるっつる滑らされたのであんまりいい思い出とは言い難かった。いやでも、録画できなかったのは本気で残念だ。この年頃の男ってのは、本命相手じゃなくても女子のお色気には食いつくものなので、大目に見て欲しい。ほら、ラッキースケベって単語もあるだろ。

まあ、それはいいとして、だ。なにしろ、たとえ録画できたとしても映像に映っているのは里中と天城なわけで、「おお、こりゃエロい光景」以上の感慨はたぶんない。
いや、そんだけあれば十分なんだけど。というか、それ以上は求めてないけど。

今はそれ以上に、この妙にべたべたする手足その他をなんとかしたい。制服にもべったりくっついてた気がするんだが、あのまま乾いてたらけっこう悲惨なことになってるんじゃないだろうか。ちゃんと確認してないけど。
自分の制服をまじまじと見下ろすよりは、同じ目に遭ってるすぐ目の前の制服を眺めたほうがいろいろと早い。

「こりゃ、ひでえわ」
「……かも」

ざっと見てみたところ、やっぱり大惨事だった。すっかり乾いてこびりついたローションはいつの間にか白くなっていて、そのせいで妙に目立つ。
八十神高校の制服は黒いから、なおさらだ。

「どっかで洗ってくか? このまま帰ったら、菜々子ちゃんびっくりするだろ」
「やっぱりそうか?」
「白くなってるしなあ。まあ、ケンカとかしたようには見えないけど」
「うーん」

一応、元は皮膚に直接つけても平気なモノだ。生地についたまま乾いたからこんな惨状をさらしているだけで、水で洗い流せばある程度はなんとかなりそうだった。

ただ、このへんに自由に水道が使える公園とかあったっけ?
八十稲羽は言うまでもなく自然が豊富で、町のど真ん中に鮫川なんてご立派な川が流れていることもあって、いわゆるお子様が遊ぶような場所には事欠かないものの、逆に都心部にありがちなちゃんと整備されている公園があんまりない。いや、探せばあるんだろうけど、俺の記憶にはあいにく入っていなかった。

俺んちはまだこの時間じゃ誰も帰ってないし、そっと洗濯機に放り込んでおけば大丈夫な気もする。あれ、でも制服の上着って洗濯機で洗っちゃいけないんだっけ? 本当はクリーニングに出すんだったっけ? そのへん、今までちゃんと気にしたことがなかったからよくわからない。

商店街からだと方向は正反対になるけど、水道探してあっちこっちうろつくくらいなら最初からこいつごとうちに連れて行ったほうがいいのか、なんてことをつらつら考えていて、ふと気づいた。
そういやここ、紛うことなく商店街のど真ん中だった。微妙に汚れた制服着た野郎ふたりが突っ立ってたら、いくら人通りが少ないからって皆無なわけじゃないし、さすがに異様さに目を剥かれてもなにも言えない。

「……とりあえず、移動しようぜ」
「え?」
「注目浴びてる」
「あ」

促してみたら、鳴上もその可能性に気づいたみたいだった。目を丸くしてこっちを眺めてるご老人に向かって、ぺこりと会釈している。途端に、そのご老人の表情が笑みに変わったから不思議だ。
それによく考えてみたら、この商店街で陰口が付随しない視線を向けられたのは、今日が初めてかもしれない。
……まあ、代わりに注がれてるのは、なにやってんのあの子たち、みたいな怪訝な視線だけどな。

「行こう、今すぐ行こう。移動しよう」
「へ? あ、うん、ってどこに?」

なぜか、急にあわてた様子で俺の背中を押しながら歩き始めた鳴上を振り返りつつ、俺は目を瞬かせた。俺たちが置かれてる状況を把握したからにしても、基本的にマイペースでのんびりというかぼんやりしている鳴上にしてめずらしい反応な気もする。

「とりあえず……水があるところ?」

俺の背中に両手を押し当てたまま、鳴上はぱちりと目を瞬かせて首を傾げた。
この様子だと、鳴上も水道が使えそうな場所の心当たりはないんだろう。八十神高校と商店街とジュネスと鮫川河川敷と八十稲羽の駅と、そのへんを網羅しとけば十分この町で暮らせるわけで、まったく困らない。

鳴上に背中を押されるに任せたまま歩を進めていたら、これまたけっこうな勢いで商店街を抜けていた。男ふたりが前後になって、うっかりすると電車ごっこかこれ、みたいな体勢で商店街を闊歩していた事実に今さら気づいたけど、それは意識の外にぽいっと捨てておくことにする。

「いっそ川で洗うか、これ」

鮫川なら、ここからすぐだ。思いつきを口にしながら、鳴上の腕を引っ張る。
腕を引かれるまま、鳴上は俺の背中に当てていた手をあっさりと離して、今度はすぐ横に並んだ。首を無理にひねらなくても、ちょっと横を見れば鳴上の姿が視界に入ることを改めて確認して、なぜか奇妙な満足感を得る。

……まあ、なんだ。このほうが、同級生の高校生男子の並びとしては普通のはずだし。

自分自身にそんな言い訳をしていたら、横に並んだ鳴上が思案顔になった。たぶん、俺が適当に言ったことについて、真剣に考えているんだろう。
たった一カ月ちょいの付き合いでも、わかる。こいつは、どこまでも真面目だ。

「川を汚すのはよくない」
「じゃ、どうせならうちくる? ジュネスのトイレで洗ってもいいけど、うちならまだ親も帰ってきてないし」

案の定な答えが返ってきたので、もっと前に思いついていたことを改めて提案してみた。
ただ、ここから俺の家までは、さほど近いわけじゃない。ジュネスの近くだから、川を越える必要があった。我ながら、効率的じゃないとは思う。

でも、鳴上はそうは思わなかったみたいだ。
ぱちりと瞬きしたと思ったら目を丸くして、それからちょっとだけ首を傾げながらじっと俺を見た。なんだか、驚いているように見えるかもしれない。
俺、驚かれるようなこと言ったっけ?

「……いいのか?」
「もちろん」

なんで、鳴上が俺の様子を窺うようにそう聞いてきたのかは全然わからなかったものの、素直に頷いておいた。大体、俺から言い出したんだから、わざわざ聞き直す必要なんかないような気がする。
ああ、でも、そういう問題でもないのかもしれない。鳴上はびっくりするほど天然でとんでもないマイペースのくせに、これまた意外なほど周りのことを見ている。

ということはつまり、俺が自分の家に鳴上を誘うことがあるなんて、こいつは今まで思ってなかったってことなんだろうか。
──改めて考えてみたら、それはそれでちょっとショックかもしれない。
今まで、単にそういう機会がなかっただけで、一度だってこいつを家に呼びたくないとか思ったことはないからだ。

「当たり前だろ!」

だから、あえて勢いよく、鳴上の肩を叩いた。俺より背が高くて、細いのにけっこうしっかりした体つきをしている鳴上はよろめいたりしなかったけど、そんな俺の行動に納得はしてくれたみたいで、ふっと全体的な雰囲気がゆるんだ。
そのまま目元に浮かぶ表情も和らいで、鳴上の顔に笑みが浮かぶ。まぶしそうに目が細められて、口角も上がる。

「じゃあ、お邪魔する」

あ、嬉しがられてるんだって思ったら、俺までなんか嬉しくなってきた。というか、ガラにもなくドキドキしてきた。家に友達呼ぶのに照れてドキドキするとか、どこの小学生だっつーの。いや、今どき小学生でもそんな反応しないかもしれない。
よくよく考えてみたら、八十稲羽に引っ越してきてから友達を家に呼んだのは、これが初めてかもしれない。そう考えたら、鳴上が俺に家に誘われて驚いたのも、じつにまっとうな反応のように思えてきた。どういうことだ、俺自身のことなのに。
でも、こいつが初めてだっていう事実は、それはそれでなんか気分がいい。ローションなんてわけわかんないモノぶちまけてくれた完二のシャドウにも、なんとなく感謝できるような気になってくる。いや、迷惑は迷惑なんだけど、きっかけになったし。

──しっかしまあ、現金なヤツだな、俺も。