−廻る世界は虹色をしている−

余談 熱気立つ大浴場

「いやー、ここあっついね!」
「汗びっしょりだよ。着替え、必要だったかな」
「そこまで考えてなかったよ〜。不覚っ」
 前を歩く里中千枝と天城雪子の会話が、なんとなく響いて聞こえてくる。風呂場で声を出すと反響して聞こえる、あの現象そのものだ。
「サウナだと思えばいいのかもしれないよ、千枝」
「あ、そっか。タダでサウナ体験! ダイエット!」
「千枝はダイエットの必要なくないかな?」
「や、それがさ〜。筋肉ってけっこう重いからさぁ……」
 もしかして彼女たちは、自分たちのすぐ後ろに一応カテゴリ的には男子に振り分けられる存在がいることを忘れているのだろうか。
 それとも、男子であることはちゃんと覚えていても、自分たちの後ろからかろうじてへっぴり腰で着いてきている、といった態の野郎どもなど、そういう赤裸々な女子トークを聞かせるべきではないという気遣いをする必要なし、と判断されたのだろうか。
 ──どちらかといえば、後者の確率が高そうだ。
「どうせサウナみたいなんだから、シャワーくらいついてればいいのにね」
 きょろきょろと周囲を見回しながら、雪子が手にした扇子であおいでいる。あの孔雀の尾羽は武器として携帯しているはずだが、大剣や双剣と違って他の使い方が出来るのがうらやましい。
(つーか、ここでそんなのんきなこと考えてられっのがいちばんうらやましいっつーの)
 心の底から、花村陽介はそう思う。それはもう本気で、真剣に。
 ここは、テレビの中だ。誘拐されてテレビに落とされた巽完二のシャドウが作り出したダンジョンであり、あっちこっちにシャドウがうろついている。シャドウたちはこの世界を覆う霧が晴れない限り人間を襲わないのだが、ペルソナを覚醒させた人間相手だと、そんなお約束を無視して襲いかかってくるのだ。つまり、この上なく危険な場所でもある。
 ただ、べつに陽介は、千枝たちがそんな危ない場所でのんきにしていられることがうらやましいわけでもない。
 今、現在進行形で陽介を本能的に怯えさせているのは、もっと別のことだ。
「さっきシャワーあったけど、水もお湯も出なかったぞ。ただの飾りみたいだ」
 そして、千枝と雪子が交わしている会話にこれまたのんきに口を挟んだのは、居合刀片手に彼女たちの前を歩いていた人物だった。
 居合刀は大剣だ。片手で振り回すには、少しばかり重い。骨が折れる。一応、あれは両手剣のカテゴリに入れられていたはずだ。
 それなのに、なぜいつ見ても片手しか使っていないのか。陽介はずっとそれを疑問に思ってはいるのだが、それについて問いただせたことはない。
 ついでに、どこにあったのかもわからないシャワーなんぞを、その人物──鳴上壮がいつの間に見つけて調べていたのか、一行の先陣を切って歩いていたはずなのになぜそんなことが出来たのか、それもさっぱりわからない。まさしく未知の世界だ。
「え、そうなの? 残念だね」
「まったく」
 ただ、雪子は当然のごとく、それについて突っ込んではくれなかった。眉を下げて、本気で残念そうな表情を浮かべている。ド≠フ文字がつきかねない天然の雪子にそれを期待するのは、いささかハードルが高かったようだ。
「えー、じゃあ、水もないんだここ。もうさっさと完二くん助けて、早く外に出ようよ〜。暑くてたまんないよ。夏服にしとけばよかったなー」
 比較的常識人のはずの千枝も壮から提供された情報の中身のほうに釣られていて、陽介が気になって仕方がないことには言及してくれなかった。それなら自分で口を挟めといったところなのだが、残念ながら今の陽介にそれだけの気力はない。この場所から逃げ出すまいとなんとか踏み留まっているだけで、そう多くはない精神力が消費されていく気がしてならなかった。
 ここは、熱気立つ大浴場というらしい。
 たしかに、浴場には違いない。どう見てもサウナだし、辺りに立ちこめる熱気もそのものだ。とにかく暑いし、湿気がひどくてじめじめしているし、快適とは言い難い。
 なのだが、先刻クマがぼやいたように、蒸し暑いというのにどうしても背に寒気が走る。これは間違いなく本能的な恐怖だった。
 理由は明確で、この熱気立つ大浴場がいわゆるハッテン場というヤツだからだ。女の子大好きな思春期真っ直中の高校生男子としては、どうしようもなく恐ろしい。
 実際はなにがどうなのかまったく予想すらつかないわけだが、少なくともここへ足を踏み入れる前に聞こえてきてしまったソッチ系の人たちの会話は、背筋に寒気どころではすまないダメージを陽介に負わせた。気がついたら、全身に鳥肌が立っていたくらいだ。
 そのケもないのにガチムチの兄貴に襲われるとか、まったくもって冗談ではない。最初のインパクトが強烈すぎたせいで、陽介の頭の中はあいにくその印象で一面、埋め尽くされている。
「つーか、花村! あんた、いつまで鳴上くんの背中に隠れてんの!?」
 その見えざる恐怖と戦っていたら、だいぶ先に進んでいた千枝が立ち止まった。振り向きざまに、聞き間違えようのない怒声が飛んで来る。
「ほ、ほっといたげて!」
 とりあえず、ここでまったく反論は出来なかった。今のところ、陽介は完全に壮の双子の弟である鳴上悠の背中に隠れているからだ。
「鳴上くんも、さっさと行くよ! もー、こっちの鳴上くんは先頭にいるのに〜」
「わ、わかった」
 とはいえ、悠もこの空間を堂々となにも気にせず歩けるほどには、開き直れていないらしい。相変わらずあまり表情は動いていないが、出来れば早くここから出たい、先に進みたくない、むさくるしい兄貴たちに遭遇したくない、シャドウと戦うのは今さら怖くないがハッテン場の正しい利用者には断じてなりたくない、と砂色の瞳が雄弁に訴えている。
(これがフツーの反応だよな?)
 そう、思いたい。まったくなんの躊躇も見せず、鼻歌交じりに居合刀を揺らしながら先陣を切っている壮が、どう考えても変わっているのだ。
「お前の兄貴、どんだけ怖い物知らずなんだよ」
「壮だし……?」
 悠の背中に隠れておんぶおばけ状態になったまま陽介がぼやいたら、他に説明しようがないとでも言いたげな表情で悠も首をかしげた。
「……それもそーか」
 ただ、陽介もそれで思わず納得してしまったのだから、まったく問題ないのかもしれない。よく考えてみれば、これ以上ないくらい説得力のある一言だ。
 あと、完全に陽介の盾にされていることは、特に気にしていないようだだった。悠らしいといえば、悠らしい。
「やっぱ、ムリヤリは勘弁だよな……」
「ああ……」
 千枝と雪子はもちろん、おそらくは壮に主張しても理解してもらえそうもない心からの本音を悠にぼやいたら、真剣にうなずかれた。心からの同意をもらえたようだ。
 理性では、そこまで恐怖するほどのことではない、というのもなんとなくわかる。万が一そっちの意味で襲われたとしても、陽介も悠も武器を持っているのだし、いざとなればペルソナもある。無傷で切り抜けることは、いくらでも可能だった。
(でも、ハート的に無理……!!)
 なによりもの問題は、それだ。
 未知のモノに対する恐怖というのは、なまじ詳しく知らないだけに天井知らずなのであった。どこまでも、大きくなっていく。
 ただ、詳しく知らなすぎてほぼ誇大妄想に等しい恐怖を感じている反面、それはもう全身全霊といった勢いでべったりと悠にくっついていることはこれっぽっちも気にならないという目を逸らしようがない事実に、陽介自身もまったく気づいていなかった。
 もちろん、くっつかれている悠も。
「だーかーら! あんたら、いつまでんなとこに突っ立ってんの!? さっさと来る!!」
 どうしても進む気になれずにうだうだしていたらまたしてもだいぶ遠くから千枝に怒られて、陽介と悠はしぶしぶ歩を進めることにする。
「わーったよ!!」
「うぅ……」
 とはいえ、やはり足が重い。早く完二を助けなければいけないことは嫌というほどわかっているし、これが完二の本質ではないということもわかっている。ただ、わかっていても気が重いだけだ。理性では理解していても、本能的な拒否感は自分でもいかんともしがたい。
「まったく、なっさけないなぁ」
「うーん、でも、しょうがないよ。男の子にはやっぱり、切実なんだろうし」
「クマもまだ背筋ぞわぞわするクマ。なんでクマ?」
「そーだけどさぁ……」
 そう、切実だった。なまじ陽介自身からは遠く、事情も実際のところもさっぱりわからず、虚構で飾り立てられたフィクションでしか知らないだけに、なおさら。
「仲いいなぁ」
 呆れを隠そうともしない千枝と、少しだけ同情的かもしれない雪子とクマの向こうで、居合刀を肩に担いだ壮が面白そうに笑っていた。