猫にまたたび

「ラーメン食いたい」
 俺に寄っかかったままうつらうつらしてたと思ったら急にぱちりと目を開いて、そいつは脈絡なくそんなことをのたまった。
「へ?」
 こいつの言動が唐突なのは今に始まったことじゃないにしても、状況が状況なんでさすがに目を丸くするしかない。というか、たった今まで半分寝かかってなかったか?
「だから、ラーメン。二丁目のラーメン屋の塩」
「や、わかったから落ち着け?」
「落ち着いてる」
「どこがだよ……風呂から上がっても起きてられるんだったら、インスタントのヤツ作ってやっから」
「インスタントじゃなくてラーメン屋のがいい」
「おいおい」
 ちなみに、今は風呂ん中だ。つーか、湯船の中だ。
 なんでこいつがこんな場所で、しかも俺を背もたれにしてうたた寝しかけてたかって、つまり事後ってやつだからだ。後始末はちゃんと、責任を持ってやらせていただきました。こいつが俺に寄っかかった状態で半分寝てるうちに。
 そんなわけで腹が減るのはよくわかるし、俺もけっこう空腹感を覚えてたりもするんだが、なんでそこでいきなりラーメン屋に繰り出すって話になるんだか、そこがよくわからない。
「つーかお前、風呂上がったら速攻寝るだろ。どー考えたってラーメン屋までもたないだろ。あんなとこまで行けんの?」
 こいつがご所望の二丁目にあるラーメン屋は、ぶっちゃけそんなに遠いわけじゃない。徒歩五分かかるかどうかってあたりだ。たぶんかからない。
 ただ、それはこいつの目がしっかり覚めてて、ついでにちゃんと自力で歩く気がある場合だ。
「寝ない」
「てか、今すでに寝てない?」
「起きる」
 勝手に閉じそうになる目と戦いながら今のところなんとか起きてますって状態のこいつを連れて、はたして店にたどり着けるのか。
「マジで行く気かよ……」
「行く」
 こいつの決意は、びっくりするほど固かった。何度聞いてみても、行く方向の答えしか返ってこない。
 だとすれば、俺も覚悟を決めるしかないんだろう。
「わかった、わかったって。んじゃ、ラーメン食いに行こうぜ」
「うん」
「風呂出たらな」
「上がろう」
「へいへい」
 絶対にラーメン食いながら途中で力尽きて寝オチるこいつを、家まで引きずって帰ってくる覚悟を。



「ごちそうさま」
 まあそんな有様だったので、そいつの口からその言葉が出てきたことにちょっと驚いていたのは、秘密でもなんでもない。
 前述のとおり、俺はラーメン食ってる途中でこいつは戦線離脱するって思ってたわけだ。だから、ちゃんと完食してるってだけでかなりびっくりだった。
 そんなに、ラーメン食いたかったのか。いやまあ、そうでもなければ半分以上眠気に負けながら、あそこまで強固に主張もしないか。
「え、もう全部食ったの? はええな」
「…………」
「おい?」
 まあでも、その驚きっていうかいっそ感心も、その一瞬後にかき消えた。
 返事がないから、カウンターのすぐ隣に座ってるそいつの顔をのぞき込んでみたら。
「…………」
 たしかにどんぶりの中は空になってたけど、なんと右手に箸を持った状態のまま、そいつは固まってた。というか、寝オチてた。
「もしもーし?」
 軽く隣の肩をゆすってみたら、丸い頭がゆらゆらと揺れる。しっかり閉じている瞳が開く素振りはまったくなくて、それどころか揺れついでなのか、頭が俺の肩の上に落ちてきた。
「……んー……」
 やっぱり起きた素振りはまったくないまま、ちょっと肩の上で身じろぎして、ちょうどいい枕を見つけたそいつはそのまま動かなくなる。耳のすぐ側から、深い寝息が聞こえてきた。
「完全に寝てるし」
 でもこいつ、三十秒前まで起きてたぞ。食べ終わってごちそうさまして、その瞬間に寝オチたのか。
 つーか、箸くらい置いてから寝ろよってひとりごちながら、そいつの右手を取り上げる。箸を握ってはいたけど力は入ってなかったから、あっさりと割り箸は指から抜けてくれた。
 抜いた箸をカウンターの上に置いて、右手はスツールに座ってるそいつ自身の膝の上に乗せておく。いつ転がり落ちてもおかしくないけど、とりあえずは俺がラーメン食っちゃわないと連れて帰れない。あと二、三口なんでそれくらいは待っててもらいたい。
 ちなみに、いつもどおりラーメンは美味かった。こいつは塩、俺は醤油だ。じつは味噌も美味い。
 もう夜遅いし、帰ったらあとは寝るだけだし、これでもチャーシュー増量の誘惑には根性で耐えたんだ。ほめてくれ。
「うし……ごっそーさま」
 ちゃんと箸を置いて手を合わせてから、すっかり枕と化している自分の左肩を見下ろす。ここがラーメン屋だってことをみごとに無視して、すやすやと寝息を立てているこいつをどうやって連れて帰るか。
 背負うか、もしくは引きずるか。自分より背も高ければ体格もいいヤツを背負うのはかなり難易度が高いから、肩貸して引きずるか。
 とりあえず、まずは会計だ。
「すいません、お勘定お願いします」
「はーい、おふたりで千五百円に……あれ、お客さん寝ちゃいましたか」
「そーみたいで……」
 声をかけたらカウンターの中で仕事してた店員が、伝票を持ったままこっちを見て目を丸くした。そりゃまあ、さっきまでくだらない世間話しながらラーメン食ってた客がちょっと目を離した隙に熟睡してたら、驚くと思う。
 俺が千円札と五百円玉をカウンターに置いたら、店員の兄ちゃんはレシートを渡してくれながらちらりと壁にかけられた時計へと視線を走らせていた。
「もうすぐ一時過ぎますしねえ」
「眠いくせにここのラーメン食べたいって聞かなかったんですよね」
「あれ、それは嬉しいですね! 毎度ありがとうございます」
「それじゃ、ごちそうさま」
 レシートをポケットに突っ込んで、完全に寝てるこいつを引っ張り上げる。腕を俺の肩に回させて、そのまま引きずっていくことにした。歩き出せば、無意識だろうけど一応足を動かしてくれたから助かる。
「またぜひどうぞー」
 店の兄ちゃんが気さくなのも、よく来てるからすでに顔を覚えられてるんだろう。背中にかけられた元気な声に小さく会釈してから、俺はラーメン屋を出た。
 こいつが幸せそうな顔して寝てるのも、ラーメンが美味しかったからだろう。気に入ってるラーメン屋だから、たぶんすぐまた来ることになると思う。
 めちゃめちゃ寛容で心が広いからそんなことあるわけないって誤解されがちだけど、こいつはけっこう言い出したら聞かないところがあった。こうと決めたらテコでも動かない。特に、俺に対しては。
 まあ、俺にならどんなわがまま言ってもいいって思われてるってことで、それはそれでちょっとどころかかなり嬉しいから、自重なんかしてくれなくていいって本気で思っている。
 ただ、さすがに完全に力が抜けてる成人男子を引きずって歩くのは重いわけで。かなりしんどいわけで。
 家まではそんなに距離もないし、こうも無防備に全身を預けてくれるってのは信頼されてる証みたいなものなんでやっぱりものすごく嬉しいんだけど、体力や力の限界ってのもそれなりに切実だったりする。
「次来るなら、こいつがちゃんと起きてるときがいーな……」
「ん」
「……起きてんの?」
「……ん−」
「寝てんのね」
 この状況で熟睡できるこいつの胆力は、ある意味感心できるレベルだと思う。
 まあ、それも一緒にいるのが俺だからなんだって思えば、胸一杯にいろんな感情が広がっていくわけだが。もちろん、プラスの。
 独占欲が満たされるって、こういうことを言うのかもしれない。
 今さっき食べたラーメンよりも、よっぽど全身が満たされたような気がした。



 結局、そのまま家に引きずっていってからなんとかベッドの中に放り込んでも、そいつは目を覚ます素振りすらみせなかった。
「ふー」
 そんなに疲れてるならラーメンあきらめりゃよかったのに、なんてのはもう今さらもいいとこなので、考えないことにする。そもそもそこまで疲れさせたのは誰だと言われると、正直一言も反論できない。いや、する気もないけど。
 とりあえず、俺も寝よう。その前に着替えよう。
 熟睡してる相棒の様子をもういちど確認してから、クローゼットに向かおうとしてきびすを返す。
「うお?」
 そのとき、着ていたカットソーの裾をなにかに引っ張られた。バランスを崩しかけて、足を止める。
「……もしもし?」
「…………」
 振り返って問いかけてみても、返事はない。返事はないけど、しっかり見えてしまった。
 熟睡したまま俺の服の裾をつかんでいる、そいつの手が。
「起きてんの?」
「…………」
「寝てんのね」
「…………」
 寝ぼけた相づちすらないということは、本気で寝てるっぽい。
 それなのに、気配だけで俺が離れるのを察知して、こうやって引き止めたということか。なにそれかわいい。
 ──いろいろ価値観が崩壊しているのは自覚しているので、放っておいてくれ。
「はいはい、わかりましたよー」
 つまり、着替えなんてどうでもいいから一緒に寝ろってことだろう。もう風呂入ったあとだし、べつに高校のときみたいに制服着てるわけでもないからこのままベッドに入ったってかまわない。
 大体、相棒もそのままだし。まあ、下はジャージだけど。
「もちょっとそっち詰めて」
 聞こえてはないだろうけど、ベッドに潜り込みながらそう言ってみる。体温を察知したのか、相棒は詰めるどころか俺のほうに擦り寄ってきた。背中に両腕が回って、抱きしめられる。
 あ、なんだこれ、俺のほうが抱き枕にされた? おかしい、俺がこいつを抱き枕にする予定だったのに。
「ま、いいか」
 正直、さほど違いはない。こうやってくっつくことで、体温を分け合えることには変わりない。
「おやすみ」
 背中は先に取られたので、相棒の腰のあたりに腕を回す。向かい合わせで、互いが互いの抱き枕状態だ。
 目を閉じれば、落ち着いた心臓の鼓動が、寝息が聞こえた。その音に耳を澄ませていると、少しずつ意識がまどろんでいく。
 幸せって、たぶんこういうことだ。ふわふわと、真綿に包まれるような心地よさに包まれる。
 きっと、今日もいい夢が見られるだろう。