骨折り損の草臥れ儲け


「おー、いたいた!」
 久しぶりに懐かしい姿を目にして、テンションが上がっていくのが自分でもわかった。
 右手を掲げてぶんぶんと大きく振ってみると、ほぼ同時に相手も気づいてくれたようだ。軽く挙げた手をひらひらと振っている。その顔に浮かんでいるのは、高校二年生のときに何度も見た表情だった。
 どこか優しい、穏やかな笑顔だ。
「おかえり」
 貴重品と二、三日分の着替えしか入っていない鞄を肩にかけなおしてから足早に近づけば、笑みを含んだ心地良い声が耳朶をくすぐる。これもまた、高校時代を思い起こさせる懐かしい感覚だった。
 一条康が日本の土を踏むのは、大ざっぱに数えてもおおよそ一年ぶりだ。
 じつは、留学先の大学を卒業するまでは、一度も日本に帰ってこないつもりだった。理由は簡単、いくら一条家が資産家だとはいえ、さすがに国境を越えるような移動を何度もすることになれば、交通費がもったいないからだ。
 とはいえ、可愛い妹に半泣きでおねだりされてしまえば、それを無下にすることもできない。帰らないつもりだった理由もべつに深刻なものではないし、事情が事情なので交通費も家がすべて受け持ってくれた。歳の離れた妹に対して甘くなってしまうのは仕方のないことだと、もう一条は開き直っている。
 それに、歳の離れた妹がどれだけ可愛い存在かということに関しては、目の前のこの人物が誰よりも同意を示してくれるだろう。一条はそう信じて、まったく疑っていなかった。
 だとすれば、長い夏休みの一部を帰省に充てたとしてもなんら問題はない。あいにく、そのことをさみしがってくれるようなかわいい彼女の存在は、今のところなかった。可能性も皆無だ。
 人当たりも良く、英語も堪能な一条は決してモテないわけではないのだが、日本人は童顔すぎるせいかどうも中学生あたりと勘違いされている節がある。そのせいか、遊びやパーティーには誘われるし女の子受けもいいというのに、そういった浮いた話までは到達しない、という状態で落ち着いている。おかげで男子の友人にも恵まれているのだから、まあいいのだろう。
 そもそもさほど切実でもないので、本人がまったく気にしていなかった。なにしろ、高校時代に抱いた淡い恋心すら、未だに一条の中で健在なのだ。
 彼女のことを考えればやっぱり胸は律儀にドキドキするし、実家に戻れば偶然会える確率も増える。無事警察官になれたという話は聞いているから、もしかしたら八十稲羽の交番あたりでばったり遭遇できるかもしれない。それくらいの夢は見てもいいはずだ。
 そんな夢が広がる実家に戻る前に、こうやって東京在住の友人の顔を見に寄ったのは、その人物・那伎暁が一条にとって大切な相手に他ならないからだ。
 幼馴染みで腐れ縁の悪友である長瀬とは、また少し違う。実際にはたった一年しか一緒に過ごしていないのに、そうとは思えないほど深くて強い繋がりを持てた大事な友人だ。高校を卒業したら留学する決心を最初に打ち明けた相手も、長瀬と那伎だった。
 近づいて行く一条へとまっすぐに向けられている視線は、それこそ高校時代のものと変わらない。着ている服の傾向が少し変わったような気がするのは、大学に入ってから一緒に住んでいるらしい相手の趣味に影響されたか、自分で買ってくるのが面倒で丸投げしたかのどちらかだろう。後者が主な理由なような気がしてならないのは、きっと一条だけではないはずだ。
 一条が知っている那伎は、まず間違いなくそういう人ことを平然とやる人物だった。そして、案の定。
「相変わらず触覚、元気なんだな。さすが一条」
 久しぶりに顔をあわせたと思ったら、那伎は感慨深げに頷きながらそんなことを言った。たぶん、本気でそう思っている。
「いきなりそれかよ!」
「だって、それなかったら一条じゃないだろ」
 まさかとは思うが、この男は自分をそれで判別していたのだろうか。そんなはずはないとは思うものの、あまりにも表情が真面目なので効果的な否定が脳内に浮かんでくれない。
 そうは言いつつも、どうやら印象だけでなく中身のとぼけぶりも本気でまったく変わっていないらしい那伎の見慣れた態度に、少しだけ安堵したのは秘密だ。



「へー、さすがコーちゃん」
「コーちゃん言うな、花村」
「や、だってさ」
 久しぶりに会った花村陽介は、どうやらかなりご機嫌の様子だった。
 那伎に連れられて訪れたマンションの一室で待っていたのは、記憶にある姿よりほんの少し大人びた雰囲気になっていた花村だ。それでも高校時代とあまり変わっていない満面の笑顔で歓迎されると、なんだか懐かしい。笑顔が年齢を若く見せるのは、どうやら本当らしかった。
 一条が花村と会うのは、軽く二年ぶりくらいかもしれない。那伎と顔をあわせたのすら一年ぶりだが、花村とはそれ以上ご無沙汰だった。
 一条にとっては、花村も気心の知れた友人だ。それでもなんとなく、自分と花村の間にはどうしても那伎があってこそという気分になる。知り合ってからの時間は花村とのほうがほんのわずかとはいえ長いのに、不思議なものだ。
 だから、このふたりが一緒にいるのが自然だということは、一条にもよくわかっている。
 わかっては、いるのだが。
「陽介、今日は機嫌いいな」
「えっ? そーか?」
「うん。だよな、一条」
「あー……うん、そーだな」
 花村の機嫌がいいことは一目瞭然だったので、とりあえず素直に頷いておく。歓迎されているのはもちろん嬉しいが、過剰すぎて少々戸惑っているのも正直なところだった。
 べつに、邪魔モノ扱いされるとか思っていたわけではないのだ。幸い、花村はそこまで心が狭くない。
 ただ、そこまで心が狭くない分、一条的にはもっと別な弊害があるわけで。
「ふーん……? あ、だとしたらたぶん、那伎が機嫌いいからだと思うぜ」
「そうなのか?」
「そーなの。……え、もしかして自覚ない? 朝からずーっと、久しぶりに一条に会えるってうきうきしてただろ」
「……なるほど。言われてみればそうかも」
「だろー?」
「よくわかったな。さすが陽介」
「そりゃ、相棒のことだしな!」
 そこで、それはもうだらしなく笑み崩れた表情を見せるのはどうなのか。まるで、ずっと尻尾を振ってアピールし続けていた犬が、念願叶って飼い主にほめてもらえた光景のようだ。
「那伎が喜んでたら、俺も嬉しいんだよ。なんつーのかな、幸せっての?」
 しかも、そう続く。臆面をどこに捨ててきたのか、少し聞いてみたい。が、聞きたくない。
 ──というわけで、さすがにこんな感じのやりとりが目の前でえんえん繰り広げられているとなると、少し遠い目にもなってしまうのだ。
 仲良きことは美しきかな、当然のことながら悪いことではない。むしろ、喜ばしいことだ。
 一条も、那伎と花村が喧嘩しているところはあまり見たことがない。というか、一度もない。
 殴り合いなどもしたことがあるらしいが、それだって別に喧嘩をしたわけではないのだ。一応喧嘩らしい喧嘩もしたことがあるらしいが、原因が「玉子焼きにかけるのはケチャップか醤油か」だったと聞いてしまったので、それ以上は追求しないことにしている。うっかり追求なんてしてみたところで、なんの得にもならなさそうだったからだ。
 もっと深刻な喧嘩も、もしかしたらふたりしか知らないところでやっているのかもしれない。ただ、もしそうだったとしてもなんの心配もないと思えるのが、このふたりだ。いいところも弱いところもダメなところもお互いよく知っているし、なによりも互いが互いを信頼しているから、致命的なヒビが入るようなこともないのだろう。
「陽介といつも一緒にいられるだけで、俺はけっこう幸せだけど」
「バッカ、それは大前提っつの!」
「あ、そうか」
 そして、ふたりの世界はまだ続いている。
(オレ、なにしにきたんだっけ?)
 少なくとも、花村と那伎のいちゃいちゃにアテられに来たわけではないはずなのだが。
 いやでも、このふたりが一緒に住んでいるところへこうやって足を踏み入れている以上、それは避けることの出来ない運命だったのかもしれない。花村にも那伎にもまったく自覚がなさそうなところを見ると、これが通常運行なのだろう。
(里中さんに聞いてみるか……)
 このふたりと仲が良い彼女であれば、この光景も見慣れていることだろう。
 もうこうなったら、会いに行くための口実にでもするしかない。さみしい独り身だというのにえんえんこうやってリア充カップルにアテられたのだから、それくらいの役に立ってくれてもいいはずだ。
 そう決心して、一条はいつの間にか中身が入れ替えられていたおかげでほかほかと湯気を立てているコーヒーカップを手に取る。那伎は、こういうことには驚くほど気が回るのだ。
(ま、いっか)
 とりあえず、このふたりが幸せならいい。最初に聞かされたときこそ驚いたものだが、それまでもずっとそういう関係だったと言われてもなんの違和感もなく納得出来るくらいには、那伎と花村は仲が良かったしいつも一緒にいた。那伎が稲羽から実家に帰ってしまう直前にはすでにこの関係が成立していたと知って、なるほどと思ったものだ。高校三年になった直後、冗談半分でからかうのもかわいそうになってしまうほどがっくりと花村は落ち込んでいたのも、仕方のないことなのだろう。
 それに比べれば、一条の前でたった今繰り広げられている光景は平穏この上ない。それに、なんだかんだでこの上なくしっくりくる。
(結局、これが自然だってことだよな)
 なによりも、幸せそうだ。
 一条にとって、那伎は本当に大切な友人だ。親友とすら呼べるかもしれない。
 その親友が他の誰と一緒にいるときより幸せそうにしているのだから、性別の差なんて気にせずに祝福してやりたかった。なによりも、一条自身が。
(でも、人前でいちゃつくのはほどほどにしてくれ)
 なんと言っても、独り身には辛すぎる。目の前でそれはもう見事なリア充風景を構成している人物がどっちも男であること以上に(それはもう気にしないことにして日が長い)、じりじりと一条の精神力にダメージを与えてくれる。
 とはいえそんな本音を口にすることも出来ず、一条はまだ熱いおかわりのコーヒーに口をつけることで自分の意識をそこから逸らした。
「一条、どうした?」
「や、なんでも」
 不思議そうに首を傾げる那伎の疑問に、一条は軽く首を横に振って応える。
(リア充爆発しろって、こういうときに使うのか)
 ──直接抗議してみたところで、どうせ真顔で完全スルーされるだけなのが目に見えていたからだ。
「幸せそうでなによりだって思っただけ」
「ああ、うん。みんなのおかげで」
 とりあえず、そういうことにしておく。それも、紛うことなき真実ではあったから。
「ちょっとくらいお裾分けしてくれませんかね?」
「え? じゃあ、千枝に……」
「ぎゃーっ! 待て、携帯出すな! 電話すんな!」
「せっかく幸せのお裾分けしようと思ったのに……」
「さっ、ささささとなかさんと電話とか……ッ!」
「里中? え、里中ってあの里中?」
「気にするな、このガッカリ王子!」
「ええっ、なんでそこでそれ!?」
 その後はだいぶカオスになったが、ひとまずいちゃいちゃにアテられる率は低くなったので、それでよしとすることにした。