あと三日


荷物の整理は、思ったよりも早く終わった。

この一年の間、八十稲羽で作った思い出が少なかったというわけじゃない。むしろ、その逆だ。本当に、実家に持ち帰れないほどの思い出を作った。
この地で得た様々な思い出の詰まったものは、なるべく手放したくないと思う。それに、ここは俺の故郷だ。俺が生まれ育った場所というわけじゃないけど、間違いなく心の故郷になった。

荷物が意外と少なくてすんだのは、叔父さんがこのままにしておいてくれる、と言ったからだ。俺がいつ稲羽に、この家に帰ってきてもいいように、と。
そう言って笑った叔父さんの隣に座ってた菜々子は、ものすごく真剣な顔で「まいにち、お兄ちゃんのかわりにそうじする!」と言ってくれた。恥ずかしながら、本気で泣きそうになったほどだ。俺の従妹は世界一。

だから、服とか参考書とか辞書とか、あとどうしても身近に置いておきたいみんなからもらった細々としたものとか以外は、この部屋に残しておくことにした。量産型ブラフマンと重武装型アグニも、ダンボールに詰めて送ったら壊れそうな気がしたのでスチールラックに飾ったままだ。モコイさんも、同じくそうした。とりあえず、ゴールデンウィークまでここで俺の帰りを待っていてくれ。

本も、置いていくことにした。すでに一度は読んだものだし、こっちに戻ってきたときの暇つぶしにお供になるかもしれないし、なによりもいつか菜々子の役に立つかもしれない。というか、『魔女探偵ラブリーン』とか『なぞなそだいすき』あたりなら今でも十分菜々子が楽しめる気がする。明日にでも下に持って行くか。
そんなこんなで、いろいろと物は増えたはずなのに、実家へと持って帰るものはさほど増えなかった。ここへ来たときに送った荷物よりは、さすがに多いけど。

──あえて荷物を置いていくことで、またいつでも来られるんだから深刻に考えることはないのだと、自分に言い聞かせている節があるのは否定しない。
否定、できない。

『はは、不景気な顔』
「……うるさい」

しかも、こんなときに限って出てくるし。まったく、ため息しか出ない。

どこからともなく響いてきた声には、やけに聞き覚えがあった。正確には、聞き覚えがあるものと少しだけ違う。人が耳にしている自分自身の声は、自分の骨に響いているせいで、微妙に他の人たちが聞いているものとは違っているからだ。
ただ、おそらくはそのせいだけでもないんだろう。妙に響いて甲高く聞こえるその声は、確かに俺のもののはずなのに、やたらと感情豊かに聞こえた。
……たぶん、楽しいんだろう。害意は欠片もないのに、悪意だけはあふれてるから、困る。

『うるさいって、しょうがないじゃん。今、俺を活発にさせてるのはお前だよ?』
「そんなの、わかってる」

うんざりだ、そう言いたい本心を隠す努力は放棄して、地デジチューナーが繋がれたアナログテレビへと視線を向ける。案の定、消していたはずのテレビに、少しノイズ混じりの映像が映っていた。

ベルベット・ルームにありそうな真っ青なクッションがしつらえられた安楽椅子に座って足を組んで、肘置きに肘を乗せて頬杖をついてじっとこっちを見ている、俺と同じ顔を持つ人物。楽しそうに眇められたその瞳の色は、金色に輝いている。
……ああ、本当に、楽しそうでなによりだ。むかつく。

『素直になればいいのに』
「なってるだろ。言葉にして言ってないだけだ」
『はは、そうだったね。お前は、基本的にまっすぐだし。俺と違って。……だよね?』
「…………」

否定できないことを知っているくせに、こいつは頬杖をついたままじつに楽しげに、こんなことを聞いてくる。
本気で、性格が悪い。というか、曲がっているとしか言いようがない。

というか、素の俺が基本的に猪突猛進(正確には、それほどでもない。一応、動く前に考えることにしている)だから、こいつがこんなねじ曲がったことになってるんじゃないか?
だって、こいつは俺の影なわけだし。

──まあ、正直なところシャドウとは思えないほど敵対心皆無で、ついでに戦闘力もないけど。ハリセンで倒せそうなヤツだけど。
……いや、やらないけどな。俺は、こいつのことを認めている。否定する気もないしできないとも思っていた。

『寂しいって、帰りたくないって、言えばいいのに』

ほら、だって、こうやって嫌になるほどストレートに、俺のなるべく正視したくない本音を突きつけてくる。
じつは否定してみたところで、こいつが暴走したりしないことは知っている。外見は俺でしかないし、シャドウの証である金色の瞳は持っていても、こいつは普通のシャドウではないのだ。

ずっと否定されていた本体に受け入れられて、ペルソナになった仲間たちのシャドウとは違う。いくつものペルソナとして分散しているはずの、俺のシャドウたる部分の象徴みたいなものだ。どちらかといえば、残滓に近いのかもしれない。
だから、力はない。否定したところで暴走もしない。

『あと三日しかここにいられないなんて、そんなの本当は嫌なんだって』

ただ、こいつはいっそ優しげな笑みを浮かべながら、こうやって俺をへこませて楽しむだけだ。
同じ顔なのに、目の色と表情の出し方が違うだけでここまで印象が変わるものらしい。こいつが出てくるたびに同じことを思ってる気がするけど、それだけ衝撃的というか違和感があるというか、とにかく俺なのに俺に見えない雰囲気っていうやつに驚く。

……まあ、驚いている場合でも、雰囲気に飲まれている場合でもない。
突きつけられた本音を否定するつもりはないが、俺には俺の考えってものがあるのだ。

「冗談じゃない。言ったら、もっと寂しくなる」
『あいつなら、受け止めてくれるんじゃない?』
「たぶん、俺よりあいつのが寂しがってるから」
『だから意地でも言わないって?』

テレビの中の自分に、バカじゃないのか、みたいな顔をされた。放っておいてくれ。

単純に見えてそうでもない、けっこう面倒くさい人間である陽介が、あれでも必死に寂しさを表に出すまいと努力しているのだ。あいつの泣き顔ならもうとっくの昔に見たことがあるけど、男としてなるべくそんなもの見せたくない気持ちはわかるから、努力するというのならなるべくそれを応援したい。
だから、俺が抱えてる寂しい気持ちまで押しつける気はなかった。そんなことしたら、あいつのことだから涙腺崩壊確実になる。

「泣かせるのは嫌だろ」
『そう? 俺は泣かせたいけどな。べたべたに甘やかして泣かせたい。バカじゃないくせにバカでかわいいし』
「それは……まあ、同意しなくもないかも」
『だろ?』
「でも、寂しいとか悲しいとかで泣かせるのは嫌だ」

しかも、それが俺に関わることならなおさらだった。
このまま、一生会えないというわけじゃない。稲羽に来る前の俺なら、離れてしまえばもう縁が切れるとあっさりあきらめていたかもしれないけど、今はそうは思わない。

たとえ、この後時間が経つことで薄れてしまうと決められていたものだったとしても、意地で引き寄せるだろう。それほど、俺はこの地で得たいくつもの絆に思い入れがあるし、愛している。
陽介との絆は、たぶんその中でも最たるものだ。
いざ実家に帰って、本格的に距離が離れてみたら寂しくて数日落ち込んでいるかもしれないけど、そのギリギリまでは笑顔で過ごしていたい。

なによりも、俺はあいつの笑顔が気に入っている。

『ふーん。過保護なことで』

聞こえてきた声は、気のなさそうなものだった。つまらないというよりは、どうでもいいと心底思ってそうだ。
どうしてくれようか、こいつ。今度、開き直って一晩中ノロケでも聞かせてやるか。さすがに、嫌気がさして引っ込むだろうか。
というか、そもそもこの状況が普通じゃなかった。

「うるさい。大体、なんでお前が出てくるんだ」
『そりゃ、お前が我慢してるからじゃない?』
「…………」

本当に、反論できないことをあっさりと告げてくるからこいつは嫌だ。

『お前が我慢してると、楽しいよ。力が流れ込んできて、いろんなものが見える。特に、お前の心の中が』
「……どうせ、最初から全部知ってるくせに」
『うん、知ってるけど』

にこりと、邪気のない笑みを見せられる。どっちかといえば邪気と悪気の塊のくせに、なんでそんな純真な笑みが作れるのか、一度本気で聞いてみたい。
しかもこいつ、俺と同じ顔なんだぞ。

瞳の色は、違うけど。

『俺は、お前だからね』
「……そんなこと、嫌ってほど知ってる」
『はは、よくできました。俺はお前のこと、好きだよ』
「俺は好きじゃない」
『嫌いでもないくせに』
「…………」
『どうせ、俺たちなんてまだまだ子どもだよ。ただのガキなんだ。大人になんて、なれやしない』
「…………」
『だから、やりたいことやればいいのに』

やりたいことをやっていても寂しくなることだってあるんだと、言葉にはできなかった。
べつに、口が開かなかったわけじゃない。ちょうどいいタイミングで、携帯が鳴ったからだ。

ソファの上に放り出してあった携帯電話を引き寄せながらテレビの画面を確認すると、ノイズは消えていた。もちろん、俺と同じ顔をしたあいつも消えていた。
それを見届けてから、携帯の液晶ディスプレイに視線を落とす。そこに表示されている名前は、花村陽介。

……もしかして、いいタイミングというやつなのか。

「もしもし? どうした、陽介」
『あー……あのさ』

着信ボタンを押してから、携帯を耳に当てる。ちょっと息を呑む音が聞こえた。
陽介のやつ、なにを緊張してるんだ?

『ちょっと、いい?』
「なにが?」
『もう、夜遅いってわかってんだけどさ、その……』
「うん」
『……今から、お前んとこ行っていい?』
「いいよ」

──考えるまでもなく、返事が口をついて出る。
いきなり乱入してきたあいつと、陽介のことを話していたせいかもしれない。
無性に、会いたかった。今、あの顔が見たい。
声を聞くだけじゃなくて。

『えっ。マジでいいの』

電話の向こうで、陽介が目を丸くしているのが見えなくてもわかった。

「いいから来い」
『は、はいっ。てか行く。走って行く』
「コケるから歩いてこい。自転車も禁止な」
『ちょ! 俺、なんだと思われてるわけ!?』
「ガッカリ王子」
『あいぼおぉぉぉ』
「冗談だ。早くしろよ」
『ちょ』

言うだけ言って、電話を切る。たぶん今頃、無情な切断音を響かせる携帯を片手に悲鳴を上げながら慌てているだろう陽介の姿を想像したら、なんだか妙に満たされた気分になった。

それにしても、いいタイミングだ。それに、陽介にしてはめずらしいおねだりだった気もする。
 ──もしかしたら、陽介のところにも陽介のシャドウが口を挟みにいったのかもしれないなんて、そんなありえないことを思った。




「あ、やられた」
「お前、けっこうこれ苦手……?」

それでもって、そんな電話のやりとりのあとに一体なにをやっているかと言うと、陽介が持ってきたゲームでエキサイトしている。
ちなみに、本体ごと持ち込みだ。俺の部屋にはそもそもゲーム機なんて置いてないし(実家にはある)、大体持ってきていたとしても、とっくの昔に片付けられてダンボールの中行きだろう。

あ、俺バカだ。せっかく意識が他を向いてたのに、陽介がゲームなんて抱えてきてくれたからちょっと忘れてたっていうのに、自分でわざわざネタを掘り返してしまった。
こうなったら、全力投球で意識を逸らすしかない。

「ちょっと待て。今から本気出して攻略する」
「えっ。今までなにやってたの?」

呆れを隠そうともしない陽介は無視して、テレビ画面に意識を集中させる。
とはいえ、こんなことしてもムダなことは、なんとなくわかっていた。わざわざゲームまで抱えてきた陽介も考えてることは同じなんだろうけど、結局ちょっとしたことで意識はそっちに行く。

「んー……遊び? ゲームだし」
「そーゆー問題じゃねえよ」

だって、考えてみれば当然だ。今日は三月十八日で、しかももうすぐ今日は終わりで、そうすれば十九日。二十一日になれば、俺は八十稲羽を離れる。
ゴールデンウィークにこっちに来る約束はしてるし、そういうの関係なくいつでも帰ってこいって叔父さんは言ってくれてるし、ちょっとの間距離は離れてもべつに心の距離は離れるわけじゃないし、さっきも思ったとおり心配なんかはしていない。

「つーか、持ってきといてなんだけど」
「ん? どうした陽介」
「それ。ゲーム、持ってきたの俺だけど」
「うん」

ただ、これまたさっきも思ったように、心配する必要はないとわかっていても寂しくはなる。だって、この八十稲羽に来てからは、なんだかんだ言って陽介とはずっと一緒にいた。学校でも、テレビの中に入ってダンジョンを探索するときも、放課後遊ぶときも、すべてが片付いて平穏な日々が訪れてからも、ずっと一緒だった。もしかしたらこの一年間、一緒にいなかった時間のほうが少ないかもしれないくらいだ。

「画面見てないで、こっち見てくんない?」
「さすがに、画面見ないでゲームはちょっと……」
「だから、中断しろって。中断。ポーズ」

結局、伸びてきた陽介の手が、強引にコントローラー中央のスタートボタンを押していった。その手は、俺の手からコントローラーを取り上げて、そのままするりと手のひらを包み込む。今日も、陽介の手はあったかい。

「朝までにクリアしてやろうと思ったのに」
「や、お前ならやりかねないけどさ」

そんなこと口にしてはみたけど、べつにそこまで執着があるわけでもなかった。それよりも、おもむろに手を握ってきた陽介の様子のほうが正直、気になる。

「で、どうした」
「……うん、その」

じっとその目を見つめてみたら、陽介は俺の手を握りしめたままうつむいてしまった。
陽介は相棒で親友で、性別同じなのにそれ以上の関係にもなりたいって思えた希少な相手だ。思うだけじゃなくてちゃんとそれを実現させた自分を褒めたい。まあ、少しばかり体当たりだった自覚は一応ある。

とにかく、そうまでしてずっと一緒にいた。ふたりで一緒に過ごす時間が、なによりも楽しかった。
明明後日からは、さすがにそう簡単には会えなくなる。だからこそ、最後まで笑顔でいたいし、陽介の笑顔を見ていたい。本気でそう思っている。

だけど、どうしてだろう。
今、俺の手を強く握りしめたまま、なにかを堪えている陽介を見ていると、なんでだか妙に胸の奥からこみあげてくるものがある。

しかもたぶん、困ったとか悲しいとかそういう方面じゃなくて、嬉しいとかそっち側だ。陽介が、俺との物理的な距離が離れることを寂しいと思ってることなんてとっくに知ってたけど、こうやって我慢しきれなくなって表に出してくれたことを喜んでるんだって、今さらわかった。

必死に寂しさを我慢してる陽介の邪魔をしたいわけじゃない。できれば前だけ向いて、ゴールデンウィークとか夏休みのスイカ割りの話とかばっかりして、楽しさだけ抱えてしばしの別れを迎えたかった。本当に、心からそう思っていた。テレビに映った影に告げた言葉は、嘘じゃない。
でも、こうやって我慢しきれなくなった陽介を見ても、どこか俺は満たされている。

うん、まあ、知ってる。散々影に言われたんだ、俺だって寂しい。ずっと一緒にいた陽介と離れることになるのはものすごく寂しい。
だけど、やっぱり。自分からそれを口にするのは、どうしてもイヤだ。これはもう、意地かもしれない。

「ほら」
「え」

そのかわり、うつむいていた陽介の頭を、握りしめられていないもう片方の手で抱き寄せた。
ふたりしてあぐらかいた状態で、手を握り合って、片方の頭を胸に抱え込んで、ハタから見ればどうしちゃったのかって光景だと思う。
でも、密接した状態で伝わってくる体温が、どんな雄弁な言葉よりも俺たちの気持ちを繋げてくれた。

こんな風に、夜中に突然思い立ったようにして互いの部屋を訪れるなんて芸当は、もうできない。しばらく、大体一年は、できない。
──でも、一年経てばできるかもしれないわけで。

「朝までこうしてるか?」
「えっ」

陽介の頭を抱きかかえたまま耳元で囁いてみたら、なんだか不満そうな声が上がった。もう立ち直ったのか。

「不満か」
「どっちかっていえばもっとくっつきたい」
「……まあ、いいけど」

とりあえず、元気になったようでなによりだ。