硝子細工のジャングルジム

1


不思議なくらい、思考はずっとクリアだった。

焦らなかったわけがない。慌てなかったわけがない。菜々子がテレビの中に落とされたと知ったとき、取り乱さなかったのは奇跡だ。体面を取り繕えていただけで、頭の中はいろいろなものがぐちゃぐちゃになっていたけれど。
ひび割れそうになっていた体面を修復してくれたのは、夜中だというのに駆けつけてきてくれた仲間たちと、そして大怪我をした叔父さんがくれた言葉だ。

菜々子は助けられる。そう、助けることができる。
まだ、終わっていない。あきらめる必要なんてどこにもない。
菜々子を無事に助けるまでは、絶対に終われない。その一念が、俺の思考からすべてのモヤを晴らした。

曇った頭で判断を下すわけにはいかない。それは稲羽に来てまもなく、テレビの中へと入るようになってからずっと、俺が自分自身に言い聞かせていたことだ。
だって、当たり前だろう? 人の命がかかっているんだ。テレビの中に落とされた被害者だけじゃない。救出のために最奥へと向かう俺たち全員の命も、それに含まれる。

俺が仲間全員の命をひとりで背負っているなんて、そんなおこがましいことは思っていない。だけど、テレビの中でリーダーとしてそれなりの指揮権を任され、それと同時にそれ相応の責任を負っているのは間違いなく俺だ。
仲間たちはたぶんそんなこと思っていないし、そもそも俺が責任を感じる必要なんてないと断言するだろう。だからこそ、俺は責任を負っていることを強く自覚すべきだと思っている。

テレビの中では、リーダーである俺の判断が事態を左右する。してしまう。そうである以上、誰がなんと言おうと俺には責任がある。
そして──十一月五日。否、正確には六日。
その責任感が、俺を救った。

菜々子を無事助け出すために、やらなければならないことはたくさんある。自己嫌悪に陥っている余裕などどこにもない。
雨の日が続いて霧が出るまでは、時間の猶予がある。事態に焦ってなんの対策もしないまま突入しても、より悪い結果に陥るだけだ。
菜々子がテレビの中に落とされ、遼太郎叔父さんが大怪我を負って入院しているという俺の中ではあり得ない非常事態に陥っていても、それくらいの頭は普通に働いた。似たようなことを、稲羽に来てからずっとやってきていたからだろう。もう、この地に来てから何ヶ月経ったのか。

なるべく急いで、だけど救出しに行くべき俺たちが途中で力尽きてしまうことなど、絶対にないように。それだけを考えるようにして進んでいたテレビの中で、一度大きく揺らいだことがある。春からずっと続いている事件の犯人、生田目が菜々子と共にいるということを悟ったときだ。

シャドウはペルソナを持たない者を襲わない。──雨が続き、霧が出るまでは。
現実の世界が霧に沈み、それと引き換えにとでも言いたげにテレビの中の世界に満ちている霧が晴れるまでは。
だからこそ、安心出来た。それなのに、菜々子の側には犯人がいる。
それは、この上ない恐怖をもたらした。一瞬、なにも考えられなくなった。

そこから俺を引き上げてくれたのも、やっぱり仲間たちだ。なによりも陽介の声が、引き止めてくれた。震えながら「俺がなんとかする」なんて、それなのに瞳に強い光を浮かべて宣言されたら、俺だってやるしかないだろう。

混乱なんてしている場合じゃない。青くなっている場合でもなかった。
最悪の事態なんて、考える必要はない。絶対に菜々子を助け出して叔父さんのところへ戻る、考えるのはそのための最良の方法だ。

だから、思考がクリアだったのは幸いだった。濁らせている場合じゃないと、俺の本能が命じたのかもしれない。
天上楽土の最上階で生田目に捕らわれた菜々子を目の当たりにしたときも、比較的冷静だったと思う。少なくとも、目にした途端に剣を振りかぶって突っ込んでいくようなことはしなかった。そうしたいのは山々だったが、そうしてしまうことで取り返しのつかない事態を引き起こす可能性を、俺の頭はちゃんと理解していた。

菜々子を俺たちに奪われた生田目が暴走したあげく、シャドウを取り込んでクニノサギリとなったときも、そのクニノサギリに操られて仲間たちが俺に刃を向けたときも、冷静に対処出来た。
クニノサギリとの戦いになる前に一度、菜々子の身体を自分の腕で抱き留めることが出来たからかもしれない。顔色は悪かったし、すぐにでも外に連れ出してやりたかったけど、その身体はちゃんと温かかった。それに少しだけ安心したから、菜々子をバックアップの直斗に預けることが出来た。

誰よりも信頼している仲間たちに敵対されるというのは、正直なところかなりショックが大きい。ただ、操られていた彼らの瞳は何も映しておらず濁っていたから、完全に別人だと割り切ることも出来た。すぐに正気に戻ってくれたし、大体操られた陽介たちに俺から攻撃する必要なんてどこにもなかったから、彼らの攻撃を無効化出来るペルソナに付け替えてさえしまえばさほど困ることもなかった。ただ、そのぶんどうしても時間はかかってしまったけれど。

それでも、よかった。ずっと続いていた誘拐事件の犯人を、この手で捕まえることが出来たのなら。もうこの先、こんな事件が起こらないのであれば。
菜々子を、無事に取り戻すことが出来たのであれば。

ぐったりとした小さな身体を抱いてテレビから出たときは、心から安堵した。もう大丈夫、そう信じていた。
少し時間はかかるかもしれないけれど、すぐに意識を取り戻して、必ず元通りに回復してくれる。今までだって、ずっとそうだった。
また、前と同じような明るい笑顔を見せてくれるのだと、疑いもしなかった。

──それなのに。
菜々子を助け出してから、もうそれなりに時間が経っているはずなのに。

菜々子は、いつまで経っても意識を取り戻さない。





どこか遠いところで、音が鳴り続けている。
さて、これは一体なんの音だったか。聞き覚えは確かにあるはずなのに、なぜかその音は記憶を刺激しなかった。

ぴんぽーんと、どこか間の抜けた音。それが、さっきから何度も鳴っている。
……ぴんぽーん?

「……! …………!!」

声らしきものも聞こえてきた。どん、と繰り返し何かを叩くような音もする。
音はたしかに耳へと届いているのに、どこか遠かった。分厚いガラス窓を隔てた向こう側の世界で起こっている出来事を、ただぼんやりと眺めているようだ。

「……いや、違うか」

正確には、眺めているわけでもない。ただ、聞いているだけだ。
気分的に億劫ではあったけれど、視線をほんのわずか動かしてみれば、カーテンを開けっぱなしだった窓から見えた庭の草木が水に濡れていた。

今日は、雨らしい。耳を澄ませてみれば、わずかに雨音が辺りに響いているような気もしてくる。
絶え間なく鳴り続けていたいくつもの音のせいで、今までまったく気にならなかったようだ。いくつもの──インターホンの呼び出し音と、ドアを叩く音と。

「おい、いるんだろ!? 開けろって!」

玄関の向こうから聞こえてくる、聞き覚えのありすぎる声。
稲羽に来てからというもの、もしかしたら叔父さんや菜々子以上に耳にしたかもしれない声だ。

「……陽介?」

そこでようやく、俺の頭は現実を認識した。
ここは、俺の家……正確には、稲羽市にある堂島家。遼太郎叔父さんも、従妹の菜々子も入院している今、この家には俺しかいない。

そして、今日は日曜日。
外は、雨。

「…………あれ?」

どうやら俺は、いつのまにか一階に下りてきていたようだ。なぜかソファの脚を背もたれにして、床に直接座り込んでいた。どおりで、少し視線を動かしただけで外がよく見えたわけだ。居間の窓は縁側に続いていて、そこから外に出られるよう大きく作られている。
テレビは消えていた。菜々子がいなくなってから、この家のテレビが天気予報を確認するとき以外についていたことはない。

台所は妙に片づいている。ここしばらくほとんど使っていないから、当然だ。
ああでも、流しにはいくつか食器が放り込んであった。後で洗わないと。
とは言ってもせいぜいグラス程度だから、なくても困りはしないが。

「おい!」

がしゃん、となんだか激しい音がする。まさか陽介のやつ、玄関の引き戸を叩き割ったんじゃないだろうな。

「ちょっと待てって」

さすがに、玄関を壊されたらたまらない。つらつらと自分が置かれている状況を分析するのをあきらめて、立ち上がる。途端に、ぴたりと様々な音が止んだ。

一気に静かになったせいか、雨音が急に大きく聞こえる。けっこうな勢いで降っているようだ。洗濯していなくてよかったと、玄関に向かいながらそんなことを思う。
居間と繋がっている台所を抜けて、廊下とも呼べないような短い通路を歩いている自分の足元が、なんだか心許ないような感じがするのはどうしてだろう。

昔ながらの引き戸には、ちゃんと鍵が掛かっていた。鍵を掛けた記憶はなかったが、そのあたりはちゃんとしていたようだ。叔父さんも菜々子もいない今、この家の留守を預かるのは俺しかいないわけで、その義務を無意識とはいえまっとうできていたのは誇らしい。
本当ならきちんと意識して施錠するべきなんだろうが、どうにも頭がぼんやりしているのでその辺りは大目に見てほしいところだ。

玄関の鍵を開けると、かちゃりと硬質な音が響いた。
最初は戸惑ったこの横に引いて開く扉にも、すっかり慣れたものだ。指を引っかけてガラガラと開くと、そこには想像していた通りの人物が立っていた。

今日は日曜日だから、制服じゃなくて私服姿だ。顔立ちが華やかだからか、好んで着ているものも明るくて派手目なものが多い。
センスそのものはけっこう独特だと思ってるけど、服装センス自体は悪くないんだと思う。少なくとも陽介は、ちゃんと自分に似合うものを選んでいた。
全体的に明るいその雰囲気に接すると、なんだかホッと出来る。陽介の本質そのものがただ明るいだけじゃないことは他でもない俺がいちばんよく知っているけれど、それでも俺に安堵感をもたらしてくれるのが不思議だ。
ぼんやりとそんなことを考えながら、視線を上げて。

「……え?」

思わず、首を傾げる。ぱちぱちと、何度か目を瞬かせた。これは、予想外だ。
年中無休で笑っていると思ったことはないし、それじゃなくても無理に笑う癖がついている奴だから、俺の前ではそんな無理をして欲しくはないと思っていた。
だから仏頂面になっていてもさほど気にしたことはないし、拗ねた顔なんてしていようものならつい、頭を撫でたくなる。目の前で泣き出したときは、つい胸まで貸してしまった。薄っぺらいし、感触に至ってはごつごつしていてまったく気持ちよくなんかなかっただろうけれど、それでも泣き顔を隠す役くらいには立ったと思う。幸い、胸を貸された方も嫌がったりしなかったし。

……話が逸れた。とにかく、そういった内心の感情が表れている表情が目に入ったのであれば、今さら驚いたりしない。むしろ陽介がそう出来ること、そして内面を垣間見せてもらえることを嬉しく思うだけだ。
だけど、今、目の前にあるものは違った。

明るい茶色の瞳が、まっすぐにこちらを見据えている。その目に浮かぶ色は、必死さすら感じさせるものだ。
それだけじゃない。視界に飛び込んできた陽介の顔は、常にないほど強張っていた。

「陽介?」

一体、何があったのか。驚いて名前を呼ぶと固まっていた表情が少しだけ揺らいで、小さくひとつ瞬きをする。
そして、次の瞬間。
くしゃり、と泣きそうに歪んだ。

「……よ、かった」

もしかしたら、息を詰めていたのかもしれない。そうとしか思えないくらい、陽介の口から吐き出されたその一言には、様々なものが込められていたような気がする。
伸びてきた手に、二の腕を掴まれた。遠慮も容赦もしていないようで、掴まれた場所がけっこう痛い。
そのまま、陽介はうつむいてしまう。すがるように俺の腕を掴んでいる指に、ますます力が込められた。

「どうしたんだ」

もしかして、なにかあったのか。言外にそんな意味を含ませて問いかければ、陽介は視線を足元に向けたままかぶりを振った。
その口からこぼれた呟きも、一緒に地面へと落ちる。

「携帯にいくら連絡しても、音沙汰ないから」

俺の耳がそれを拾って、しかも意味を理解するまでには、少しだけ時間がかかった。

「……え」

そういえば、しばらく携帯電話を目にしていない。
最後に携帯を見たのは、いつだったろうか。最後に携帯から発せられる音を耳にしたのは、いつだったか。
そこで、初めて気づく。

──携帯をどこに置いたのか、覚えてもいなかったことに。

「ああ、悪い。どこかに埋めたみたいだ」
「埋めたって」

陽介がいくら連絡してもと言っている以上、何度もメールも送ったか電話をしたかしたんだろう。家の中でマナーモードにする必要もないし、こうやって陽介が血相を変えて飛んでくるほどに着信を繰り返していたなら、何度も音が鳴ったはずだ。

だが、今朝起きてから一度も、携帯の着信音を聞いた覚えがない。着メロだの着うただのは面倒だから設定していないが、だからこそわかりやすい音が鳴るはずだ。
大体、電話にはずっと気をつけていた。家の電話も携帯も、その別はない。
病院からの知らせは、電話で来るはずだったから。

それなのに、どこに埋めたんだろう。さっき、ソファにもたれながらぼんやりと眺めていた感じでは、特に埋もれそうな山も発生していなかったのに。

「おーい?」

今ひとつあやふやな記憶をたどっていたら、いつのまにか陽介が顔を上げていた。いぶかしげに、俺の顔を見つめている。
ああ、そうだ。ここは、玄関先だった。

「とりあえず、中に入れ。こんなとこに突っ立ってたら寒いだろ」

話を聞く限り、陽介は突然連絡の取れなくなった俺を心配してわざわざ雨の中、家まで来てくれたのだろう。
それなのに、この対応はあんまりだ。結局コタツもまだ買い換えていないし、ストーブも出していないから家の中もそこまで暖かいわけでもないが、少なくとも外よりはマシのはずだ。何しろ、雨が降っていない。
よくよく考えてみれば、そもそもこの家にストーブはあるんだろうか。叔父さんに聞いておくべきかもしれない。

「いや、あの」

なのに、陽介はどうしてか戸惑いを見せた。なぜそういう反応になるのか、さっぱりわからない。
とりあえず、おかしいことは言っていないはずだ。……たぶん。

じつは、あんまり自信がない。真面目かつ普通のことを言っているつもりでも、陽介どころか里中にまで目を丸くされることがたまにある。めったにないとはいえ、ごくごくたまに。さすがに天城には言われたことがないが、はたしてそれは自慢にしていいものかどうか。
それはともかく、今の主張は至ってまっとうなもののはずだ。
俺だって、ここにずっと突っ立っていたら寒い。

「あの、じゃないだろ。いいから入れ。なにを遠慮してるんだか」

片腕はまだしっかりと拘束されたままだったので、自由なほうの腕を伸ばして陽介のブルゾンを掴み、ついでとばかりに家の中へ引っ張り込んだ。

「わっ!?」

自慢じゃないが、力にはそこそこ自信がある。伊達や酔狂で重い両手剣を振り回しているわけじゃない。
俺の行動を予想していなかったのか、陽介が思いっきり前につんのめった。足元を見ていなかったせいで、敷居でけつまずいたらしい。
そのまま転がるのをただ眺めているのはかわいそうなので、とっさに引っ張っていたブルゾンから手を離し、手首を強く握って腕を高く吊り上げる。やや中途半端な体勢ではあるものの、転倒はこれで免れることが出来るだろう。

「…………っ」

そのはず、なのに。またしても、陽介の表情が泣きそうに歪む。

「陽介?」

陽介の手首は、やけに熱かった。もしかして熱でもあるのかと、つい聞いてしまいそうなくらいだ。

「サンキュ、コケなくてすんだわ」

そう言って苦い笑みをこぼした陽介の顔は、もう泣き出しそうでもなければ強張ってもいなかった。
手首を握っている俺の手を外そうとはしていない。俺の腕を掴んでいる手も、放そうとはしていない。
ただ、視線は微妙に泳いでいた。俺の目をまっすぐ見つめていたかと思えば、次の瞬間にはまったく他の場所を彷徨っている。
どう考えても、様子がおかしい。

だけど、ここでそれを追求するのはどうにもはばかられた。一応、屋内には入ったとはいえ、やはりここはまだ玄関だ。
そっと握り込んでいた手首から力を抜いて手を放すと、陽介は少しだけ眉をひそめる。その反応に目を瞬かせているうちに、俺の二の腕も解放された。

「んじゃ、お邪魔しまっす」
「ああ」

陽介が何をしたいのかよくわからなくて、つい首を傾げる。
──外にいたはずなのに、陽介の手がひどく熱を持っていたことが、不思議でならなかった。