Junk!!



「あうぅ……」

目を上げた途端、一応授業中だっていうのにいきなり小声でうめく羽目になった。

机の上に広げてある教科書から視線を上げると、視界に入るのは相棒の背中だ。俺の前の席がこいつの席なんだから、当たり前のことだった。

それはいい。むしろ嬉しいし、都合もいい。
用事があればちょっと背中をつつくだけですぐ振り向いてもらえるし、そもそもこいつの背中は見てて飽きない。

なのに、なんでうめくようなことになってるか。
たぶんそれは、残暑が厳しいからだ。

……いや、正確なことを言えば原因はそれだけじゃない。親友で相棒、それに加えて夏休みの終わり頃を境にひとつ増えた、俺たちの関係性にある。

「はー……」

小さくため息をついて、もう一度教科書の上に突っ伏した。

暦の上では秋になってるとはいえ、夏休みが明けたばっかりの今はまだまだ夏真っ盛りだ。当然、みんな薄着もいいとこで、目の前に座っている相棒も上はカッターシャツ1枚という軽装だった。冬服着てたときもやっぱり下はカッターシャツだけで学ランの前を全開にしてたくらいだし、こいつはそもそもあんまり厚着が好きじゃない。

それはどうでもいいっていうか、世の中が薄着傾向になるのはいろんな意味において目の保養なわけで、どっちかって言えば歓迎だ。歓迎してるのになにが問題になのかと言えば、歓迎すぎて過剰に反応してくれちゃってる俺の本能ってヤツのせいだった。

「…………」

突っ伏したまま、ちらりと目線だけを上向ける。少し猫背気味の、でもすっきりした背中が視界に入った。
その背中のすぐ上、カッターシャツの襟から覗く首筋が見えてしまうと、そこからどうしても目が離せなくなる。それじゃなくても右の耳から左の耳に抜けていた授業なんて、もう聞こえてすらこない。

理性が何を主張したって、もう俺の頭にはなんも聞こえてなかった。ただ吸い寄せられるように、じんわりと汗の浮いたうなじを見つめるだけだ。

──なんていうんだろう。前はごく普通にできていたことが、ある日を境としてうかつにできなくなった。

たとえば背中から抱きつくとか、肩に頭を乗せてみるとか、そんな感じのことだ。もともと、俺はスキンシップが激しいほうらしくて、仲の良い野郎の友達には平気でそんなことをしていた。もちろん、女子にはやったことがない。

今だって完二やクマ、一条や長瀬が相手なら平気でできる。あいつら相手に遠慮したところで意味なんかないし、遠慮してみたところで逆に気味悪がられるだけだ。

ただ、相棒にだけはどうしても無理だった。もちろん、嫌なわけじゃない。くっついていいなら、いつまでだってくっついていたい。
それができないのは、ただくっつくいて肩を組んで、なんてレベルじゃすまなくなるからに決まってる。

今だって、そうだ。すぐそこにある相棒の背中に、首筋に、触りたい。触りたくてたまらない。
たぶん実際に触ってみたら、今度は触るだけじゃ物足りなくなってくるんだと思う。噛みつきたいとか舐めたいとか、しまいにはそれすら物足りなくなるのは目に見えていた。そんなの、すでに身をもって経験済みだ。

だけど、いくらなんだって授業中にそんなことできないだろ。俺にだって、それくらいの自制心はある。

周りにはこれでもかってほど人目があるし、なにより授業中だ。
先生に当てられたとき、俺がぼんやりしてて質問を聞き逃してたり、答えがわからなくて四苦八苦してればそっと助けてくれる相棒も、さすがに俺がうっかり本能に負けて指を伸ばしたりしたら、鉄拳制裁くらい喰らわせてくるだろう。
そんなの、簡単に想像できる。つーか、喰らいたくない。

「はぁ……」

視線を机に戻して、ため息ひとつ。見なきゃすむ話だが、目が勝手にそっちにいくんだからしょうがなかった。健全な高校生男子の本能なめんな。

いや、なめてたつもりはないんだが、自制心というものは自分が思っている以上にもろいものなんだってことも身をもって知った。

時と場所さえ選べばその欲求が満たされることも、俺の本能は知っている。だから、よけいに調子に乗りやがるんだろう。手に負えないったらない。

「おい、陽介」
「なに、あいぼー……」

ちなみに、俺の親友にして相棒にして恋人(このいちばん最後の要素が、俺をさっきから挙動不審にさせている)は、声もやたらとよかった。
落ち着いてる穏やかな声を聞いてると、気持ちよくなってくる。喋ってる内容はけっこうくだらないことが多くて、それがまたよかった。文武両道容姿端麗家事もばっちりの完璧な人間に見えるのに、中身はやっぱり俺と同じ高校2年生なんだってことに安心するから。

「陽介、起きろ」
「起きてる……って、ん?」

そうそう、この声──突っ伏したままうなずきかけて、ふと我に返る。
あれ、なんで相棒の声が聞こえてくるんだ? 今、授業中じゃなかったっけ?

「あ、あれ?」

おそるおそる、視線を上げてみる。すると、そこにはさっきまで悶々と見つめていた相棒の背中じゃなくて、なぜか相棒の顔があった。
呆れを隠す努力を放棄した砂色の瞳は、間近で見るとちょっと怖い。怖いのに、目が離せなくなるから困る。

「目、覚めたか?」

その瞳にじっと見下ろされて、ぱちりとひとつ瞬きした。
そうだ、魅入ってる場合じゃなかった。

「いや、寝てないっつーか……授業、いつのまに終わってたわけ?」
「チャイムの音も聞こえてなかったのか? やっぱり寝てただろ、お前」
「え……あ」

上半身を起こして辺りを見回せば、教室のあちこちをクラスメイトたちがうろついている。机をくっつけて、昼飯を食い始めてる連中もいた。
本当に、もう授業は終わっていたらしい。しかも、昼休みだ。

「……マジで?」
「マジで」

そう言って肩をすくめた相棒の手にも、見慣れた弁当箱がぶら下がっている。それを目にしたら、条件反射のように腹が鳴った。
頭は使い物になってなくても、身体は正直だ。ちくしょう。

「さっさと現実に戻ってこい」
「お、おう」

促されて、立ち上がる。俺と相棒はそんなに身長差もないから、こうやって並んでいれば目線は自然と近くなった。
目線が近いってことは顔も近いってことで、そんなに差はないけど相棒のほうが背は高いから、ちょっとずらすだけで首筋とかあごのラインが視界をかすめる。

あ、ヤバイ、まただ。時も場所もおかまいなしに襲ってきた衝動が、俺の意識をぐらぐらと揺さぶった。

平静でいられないっていうか、ぶっちゃければムラムラする。
でもここは教室のど真ん中で、大体真っ昼間で、そもそもこれから昼飯食うわけで、頼むから治まってくれ。自分自身のことなのに、祈るしかなかった。
神頼みか。なんて、アテにならない。

「花村?」

いぶかしそうな目つきになった相棒が、ぺたりと俺の額に空いているほうの手を当てた。
それだけで、背筋に寒さとは縁のない震えがくる。落ち着けって心の底から思ってるのに、全身の感覚は理性の指示なんて欠片も聞いちゃくれなかった。

相棒の手は、俺の体温より少しだけ冷たい。その冷たさに、ぞくりと肌が粟立つ。

「知恵熱? あ、でも授業中寝てたっけ」

俺の昼らしからぬ反応になんて相棒が気づくわけもなく、その手は額から髪へと移っていた。くしゃりと前髪を撫でられて、今度は首筋に汗が浮いたのがわかる。
意思を無視して勝手に動きそうになった腕をなんとか押しとどめて、俺は相棒と目線を合わせた。この瞳から逃げて別のところを見ようとしても無駄なことは、この数秒で嫌というほど理解した気がする。

「……相棒。落ち着けって言ってくんね?」

とりあえず、それにすべてを賭けてみた。
こいつの手がヤバイのは百も承知なんだが、引っぺがすのはあまりにももったいない気がしたのでそのままだ。
そんな状況でどれだけ「落ち着け」効果があるのか、期待できない気はしたけどやらないよりはマシだった。こいつの「落ち着け」は、予想以上に効果がある。特に、慌ててたり動転してたりするときは。

「? 落ち着け?」
「や、そんな首傾げながら言われても」

なのに、いざやってもらったら逆にそれかわいいからヤメテって言いたくなって、みごとに墓穴を掘ったことを知る。
ビジュアル的にはかわいい要素なんてほとんどないのに、どっちかといえばなにこのイケメンみたいな男前なのに、なんでそんな感想しか頭に浮かんでこないのか。今さらか。

ちなみに俺がぐるぐると葛藤している間に、相棒は俺の態度が支離滅裂でおかしいことを不審に思うことそのものに飽きたようだ。

「まあ、いいか。行くぞ、花村」
「え、あ、うん?」

弁当をぶら下げたままの手で、ぐいぐいと俺の肩を押してくる。さすが、テレビの中で両手剣だの刀だのゴルフクラブだの振り回してるだけあって、こいつの力は強い。あっという間に、教室の外まで押し出された。

「リーダー、あんまり花村甘やかしちゃダメだよ〜」
「そうか? けっこう面白いぞ、甘やかすの」
「マジで? 趣味わるっ!」
「うん、そうかも?」

天城と弁当食ってたはずの里中の冷やかしと、それに応える相棒の声が聞こえてきたけど、それに口を突っ込むどころじゃない。
額から前髪、今度は肩に移った指先の体温を追うのに、俺の意識は必死になっていた。

あーあ、本気で落ち着くどころじゃない。俺、こんな状態で昼飯堪能できるんだろうか。
もったいない。今日は、こいつの手作り弁当のご相伴にあずかれる日だっていうのに。



「……あの、もしもし? あいぼー?」
「なに?」

──なのに、なんでこんなことになっているんだろう?

俺たちが昼飯を食う場所に選ぶのは、ほぼ屋上だ。9月に入ったとはいえまだまだ暑さ真っ盛りで、日差しが厳しい昼休みの屋上にはあまり他の生徒たちは寄りつかない。

というわけで、夏の間はなんとなくふたりっきりの気分を味わえるオトクな場所だった。とはいえ屋上は広くて、ついでに物好きもいないわけじゃないから本当の意味でふたりだけってわけでもなくて、そういう意味では中途半端なところでもあった。
授業をサボればまぎれもなくふたりっきりになれるけど、でもそこで危ない橋を渡るくらいなら放課後まで待ったほうがいい気もするので、まだやったことはない。

「いやいやいや、そうじゃなくて」

混乱しすぎてまったく別方向に転がりだした思考を、あえてツッコミを声に出すことで無理矢理引っ張り戻す。戻したところで脳内はぐちゃぐちゃにとっちらかっていて、やっぱり現状把握は無理だった。

とりあえず、ここは中途半端で日差しが強烈で、そのわりに風が通る日陰を見つけられればけっこう快適な屋上ではない。
屋根があるから日差しは遮られてるし、壁もあるから風なんか通らない。電気が消えてるから昼間でも薄暗くて、暑いはずなのに不思議とひんやりしているのは、ここが体育倉庫だからだ。こんなとこ、すごい久しぶりに入った。

「ん? だから、なにが」

俺をここに連れてきたのは言うまでもなく、今俺の目の前で首を傾げている相棒だ。
いつもなら屋上に続く階段を上るのに、なぜか俺の肩を押したまま下りようとしたところで「ん?」とは思った。だけど、今日は違う場所にすんのかなって特にツッコミも入れなかった結果、こういうことになっている。

「今の状況が!」
「お前、大丈夫? 主に頭が」
「大丈夫くねええええ! つか、大丈夫くなくしてるの誰かわかってる!?」
「知らないなあ」

それは楽しそうに、しかもキレイに笑いやがった相棒の手には、弁当箱も箸もない。弁当箱は、跳び箱の上にちゃんと置いてある。というか、隔離されている。

慌てふためく俺を見下ろしていた相棒は満足そうに目を細めると、俺の肩置いていた手を動かした。指先が鎖骨に触れて、びくりと全身がすくむ。

それじゃなくても、さっきまで制御不可能な衝動と戦って、というより負けていた俺だ。それだけで、動揺しすぎて一瞬忘れかけていた感覚にふたたび、火がついた。しかも、さっきより勢いがすごい。
こいつに見下ろされているという、いつもとはあきらかに逆の状況も、よけいそれを煽っていたのかもしれなかった。

「待って! ちょ、待って!?」
「なんで?」

コンクリートの床の上に積まれたマットの上に、俺は上半身を起こした状態で足を投げ出したまま座り込んでいる。その足をまたいで、やっぱりマットの上に膝をついたこいつが、なぜか俺に覆い被さろうとしているという、これまたやっぱりいつもとは逆の状態だった。

なんでこんなことになっているのか、さっぱりわからない。教室にいるときから、というか授業中の時点からずっとこんな状況を夢見ていたような気はするけど、あくまでも夢であって、現実になるなんて思ってはいなかった。
むしろ、なっちゃヤバイだろ。ここ、学校なのに。

でも、そんなこと考えて目を白黒させてるうちに、こいつは好き勝手していた。左の耳に唇を寄せられて、吐息が触れると同時に全身が震えた。刺激が強すぎる。

「お前、ずっと俺のこと見てただろ? しかも、熱烈な視線で」

しかも、やけに艶めかしい吐息にまぎれて、こんなことまで言ってくれた。
さっきとは別の意味で、またしても全身が震える。今度は、なんていうか、どっちかっていえば後ろめたさが原因だ。

「ってえええ!? なんでバレてんの!?」
「俺は背中にも目がついてるんだ」
「嘘っ!?」
「うん。嘘」
「……あの? ……って、ちょ……ッ」

鎖骨の上にとどまっていた指が、じわりとした熱を残しながらゆっくり喉へと移動していく。急所を優しく撫でられて、ぞわりと全身に震えが走った。
剣を握り慣れたこいつの手は、しっかりしていて華奢な印象なんかどこにもない。なのに、指先はやたらときれいだ。
家事するときの邪魔にならないようになのか、それとも剣を握るときに邪魔なのか、きれいに切りそろえられた爪でひっかけるように首筋を撫でられて、ぞくぞくする。肉食獣に命を狙われたときって、もしかしてこんな感じがするんだろうか。

「あんまりにも、花村の視線が熱烈だから」
「……っ」

相棒の左手がシャツの裾から入り込んできて、そろりと脇腹を撫でていく。他の奴に触られてもなんとも思わないのに、相手がこいつだとどうしてもダメだ。ほんのわずか触れられただけなのに、そこから律儀に熱を拾って、どこもかしこもぐずぐずに溶けていく。

どうってことないはずの指の動きに、翻弄される。
左の耳から流れ込んでくる囁きに、すべてがかき乱される。冷静な判断力は、とっくの昔に遠いどこかへお出かけ中だ。

「真っ昼間だってのに、その気になった」

なのに、こいつはトドメのようにそんなことを言ってくれた。しかも、俺の耳元で。耳朶に舌を触れさせながら。

「え、ちょ、へ?」
「で、悔しいから、花村もその気にさせてみようと思って」
「な」

泡を食ったままわたわたしていると、相棒は親切にも上半身を起こして、ちゃんと俺に顔を見せてくれた。
改めて確認してみても、その顔を見る限りでは「その気になった」とか言われてもまったくピンとこない。でも、こいつはこうと決めたらみごとなほどにポーカーフェイスを貫くやつだってことも、同時に思い出した。
その特技は、あんまり俺には発揮されない。なのに、今日に限ってそれを発揮した、ということは。
もしかして俺の熱視線に煽られたのが、こいつ的にはかなり悔しいことだったりするんだろうか。変なところで負けず嫌いだから。
そして、じっと見てただけで煽られてくれるなんて、もしかしなくても俺ってかなり愛されてるんだろうか。

だからって、その結果やることが普通じゃないというか、男らしすぎるような気はするが。

「その気になった?」

悪戯っぽく笑うその顔が、なによりもかわいくておそろしくきれいなのに、憎らしい。でも、やっぱりどうしようもないほど愛しい。
だから、正直に白状することにする。
この事態を招いた原因はそもそも俺にあるってことも、骨身に染みてよくわかったし。

「……すいません、俺はけっこう前からっていうか授業中あたりから、不可抗力的にだいぶその気です……」
「あ、そうなんだ。なら、よかった」

──そして困ったことに、そう言って笑ったこいつの顔がとんでもなく嬉しそうだったので。
ここは学校だって囁くなけなしの理性を振り払うとためらうことなく腕を伸ばし、俺の上にあった身体を力いっぱい抱きしめる。
そのまま、その白い首筋に齧りついた。



「あー……チャイムだ」

いくら昼休みがそこそこ長いとはいっても1時間はないわけで、青春っていうか思春期っていうか健全な高校生男子の欲望がそうあっさりおさまるわけもなくて、後始末をしてからいつもの屋上に場所を移した頃には、もう昼休みも終わりかけだった。

教室から体育倉庫まで持ち運ばれ、その後この屋上に持ち込まれた弁当の包みは、まだ開かれていない。なんとか屋上まではたどりついたものの、ペットボトルの水だけ飲んで作り主が睡没したからだ。
まあ、疲れるのも無理ないと思う。こう、いろいろと。

「んー……」

相棒は音に反応してかもぞもぞと動いてはいるものの、目が覚める素振りはない。俺にも、起こすつもりはなかった。

大音量で鳴り響く午後の始業のチャイムは意識の外に追い出しながら、俺の肩にもたれてすやすや寝息をたてている相棒の髪を撫でる。

こいつが昼寝から起きたら、弁当のご相伴にあずかろう。でもって、しばらくここでのんびりしよう。

残暑の日差しに照らされながら、そんなことを考えた。
ああ、うん。

幸せだ。