ハロウィンの朝

「ねえねえ、お兄ちゃん!」

菜々子の元気な声に呼ばれて、ぐったりと伏せていた顔を上げた。
妙に疲れた気分のまま天城屋旅館から帰ってきたのは、ほんの1時間ほど前のことだ。「おとまり、楽しかった!」とはしゃぐ菜々子の姿に少しだけ癒されつつ、1階のソファに身を投げ出してそのままぼんやりしていた。
ぐったりしていた理由は、あんまり振り返りたくない。どう考えても冤罪だった風呂乱入事件とか、男子チームに割り当てられた部屋が明らかにワケありだったとか、やけっぱちで女子部屋に突撃してみたらそこは地獄だったとか、挙げ連ねてみただけでどっと疲れが押し寄せてくる。
もちろん、楽しいこともあった。それは嘘じゃない。
ただ、それ以上に女子連中に振り回されただけだ。これも男に必要な甲斐性なんだろうか。否、絶対違う気がする。

「お兄ちゃん? どうしたの? つかれてる?」
「あ、ごめん、なんでもないよ。なに?」

不思議そうに首を傾げている菜々子に顔を覗き込まれて、やっと我に返った。
この持って行き場のないやるせなさを、特捜隊の女子メンバーに遊んでもらってご機嫌な菜々子に気づかせる必要はない。意識を切り替えてちゃんと視線を合わせると、菜々子はぱっと表情を輝かせた。
うん、可愛い。うちの従妹は世界一。

「あのね、とりっくおあとりーと、ってなに?」
「とりっくおあとりーと?」

その、世界一可愛い笑顔が尋ねてきたのは、謎の単語だった。
とりっくおあとりーと。トリックオアトリート。ぐるぐると脳内で告げられた言葉をこねくり回し、はっと気づく。
全部一度に繋げて発音するから、意味がわからなかったのか。

トリック・オア・トリート。すなわち、Trick or Treat.

なるほど、そういうことなら納得だった。
考えてみれば、今日は10月31日。まさに、その日だ。

「ああ、わかった。ハロウィンだよ、菜々子」
「はろうぃん?」
「うん、ハロウィン」

目を丸くして首を傾げる菜々子に、ハロウィンについて簡単に説明してやることにした。
起源はケルトの感謝祭だとか、カトリックにおける万聖節の前夜に行われるから前夜祭という意味でハロウィンと呼ばれるようになったとか、そういうことはこの際関係ない。

今日、子どもたちに必要なことは、たったひとつだけだ。

「かぼちゃをくりぬいてジャックランタンを作って、中にろうそく立てて飾ってお祝いするんだけどね。魔女とかお化けとか、そういう仮装をした子どもたちに『Trick or Treat』って言われたら、大人はお菓子をあげなきゃいけないんだ」
「へー!」
「で、お菓子をもらえなかったら、その人にいたずらしていいんだよ」
「いいの!?」

きらきらと菜々子の目が輝く。
そりゃ、小学1年生の子どもがそんなこと教えられたら、喜ばないわけがない。コスプレもお菓子も、子どもたちにとっては大好物だ。
でも次の瞬間、菜々子はしょんぼりとしおれた。

「あ、でも菜々子、かそう≠ナきない……そういうの、ない」

まあ、そんなことだろうと思った。堂島さんが、その手の準備をしてるわけがない。
だけど、仮装なんてそんなもの、ある程度の知恵と手先の器用さがあればなんとでもなるわけで。

「それなら大丈夫。頭からシーツ被れば、それだけで立派な仮装になるしな。やるならシーツにお化けの目、描いてあげよう」
「ほんとに!?」
「ホントに。買ったけどまだ一回も使ってないシーツあるから、菜々子にあげるよ」
「お兄ちゃんありがとう! だいすき!」

この一言と満面の笑顔のためだと思えば、もう一枚買えばすむシーツなんて少しも惜しくはない。
2階の自分の部屋から替え用に買っておいた新しいシーツを引っ張り出してきて、菜々子の身長に合わせて簡単な顔を描くのに要した時間は、ほんの10分ほどだった。

「うん、上出来だ」
「わーい!」

もっと前に気づいていればもっと可愛いコスプレ衣装も手に入れられたんだろうが、まあ気づいたのが当日なんだから仕方がない。
それに、急ごしらえの仮装にしてはそれなりに形になっていた。マジックと針とフェルトと、さらに色つきの糸があってよかった。

「じゃあ、じゃあ、とりっくおあとりーと!」

目の前でぴょんと飛び跳ねた可愛らしいお化けの頭を撫でながら、少しだけ思案に暮れる。
ハロウィンだってことをすっかり忘れていたから、菓子の準備はなにもしていない。だからといって、ここで甘んじて悪戯方向へ行かせるわけにもいかない。こう、自称菜々子の情緒面の教育担当として。
大体、菜々子も悪戯よりはお菓子のほうが嬉しいだろう。
そして運良く、冷蔵庫の中には一昨日ジュネスのタイムサービスで買ったかぼちゃが入っている。

「ハッピーハロウィン。そうだなあ、1時間待っててくれる? そしたら、美味しいかぼちゃのお菓子をプレゼントするよ」

カボチャのクッキーくらいなら余裕で作れるだろう。そんな答えを弾き出す。

「うんっ!」

嬉しそうな声をあげた菜々子が真っ正面から飛びついてきてくれて、心ゆくまでその頭を撫でつつ、心の底から幸せを噛みしめた。
自分じゃ見えなかったけど、俺の顔はそりゃあもう、見事なまでに緩んでいたに違いない。