2012年6月22日

日本列島がほぼ全域梅雨入りしてすっかり雨の続く毎日というものが普通になった頃。燃料というものは意外とすぐに枯渇してしまうものなのだと、花村陽介は齢十八歳を迎えた日にそのあまり歓迎したくない事実を悟った。
悟ったのが人よりも早かったのか遅かったのか、それは正直なところ判別つかない。つかないものの、痛感してしまったのは間違いなかった。

「どーせならわかりたくなかったぜ……」

ベッドに寝っ転がって枕を抱えながらブツブツとひとりごちてみても、返る答えはもちろんない。
こぼれた呟きには恨みと悲哀が相当な勢いでこもっていたが、やはりそれに同情してくれる優しい第三者も存在しなかった。三月末頃までは花村の部屋に居候していたお騒がせなクマも、今はもうテレビの向こうに広がる世界へとすでに帰還している。ここで、部屋の主の愚痴を聞いてくれたりはしなかった。

「くそ」

八つ当たり気味に枕をベッドに叩きつけてから、窓の外へと視線を向ける。カーテンが開きっぱなしなので、窓の外がよく見えた。これまた見事に、雨だ。
梅雨の真っ直中なのだから、仕方がない。だが、理性ではわかっていても、本能というか感情はなかなかそれを受け入れてはくれないものだ。

「誕生日だっつーのにさー……」

胸のうちに凝っていたわだかまりを言葉にしてしまうと、ますます落ち込んでくる。気分が落ち込んでいる理由なんて火を見るよりも明らかなので、よけいに思考が出口のない迷路の中でぐるぐると回ってしまうのだ。

──自分の誕生日なんて、じつは今までほとんど気にしたことはなかった。
誕生日当日は母親が好物を作ってくれるし、父親は少々小遣いを奮発してくれたりするが、その程度のメリットしかない。花村が築いてきた友人関係においては互いの誕生日を祝いあうという習慣はなく、そもそも友人の誕生日すら知らないことのほうが多かった。
それが普通だったから、誕生日というものに特に思い入れもこだわりもなかったのだ。だから去年も、気にしてはいなかった。初めてできた親友にだって、わざわざ教える必要はないと思っていた。

その自説が揺らいだのは、数ヶ月後だ。特捜隊の仲間である女子たちが、花村の特別である親友兼相棒に誕生日のプレゼントを渡して祝いの言葉を述べているのを目の当たりして、予想外の衝撃を受けてしまったことに起因する。
花村は相棒の誕生日を知らなかった。今まではそれがごく普通で当たり前のことだったのに、知らなかったことに衝撃を受け、里中や天城は知っているのにどうして自分には教えてくれなかったのかと逆恨みすらしそうになった。
なお、実際のところは女子たちが強引に誕生日を聞き出しただけで特に彼が自分から誰かに教えたわけではなかったのだが、そのとき初めて花村と相棒は互いの誕生日を知ることになったのだ。

ちなみにその日、花村は相棒に愛屋でラーメンと餃子をおごって誕生日を祝ったわけだが、花村の誕生日がとっくに過ぎていたことを知った相棒は、砂色の瞳をほんのわずか眇めて「来年のお前の誕生日、覚えてろ」と呟いていた。どことなく恨みがましい目つきと口調だったような記憶もあるが、表情にも口調もにあまり動きを見せない奴だったので、花村は気のせいだということで片づけていたような気がする。
そして、「覚えてろ」と言われた花村の誕生日がやってきたわけだが、元々稲羽にいるのは一年間だけだと決まっていたその相棒は、もうここにいないわけで。
彼が稲羽を去る前日、すべての決着をつけた後に花村と相棒の関係は親友を越えて恋人になっていたりするのだが、二人の間を阻む現実的な距離は決して縮まってくれたりしないのだ。

「ゴールデンウィークには会えたけどさ」

春先に別れるときに、デートしようと約束した。その約束は意地と根性で果たしたが、彼の帰郷を心待ちにしていた人は多い。ずっと独占するなんて、無理だった。
おかげで、早々に貯金が尽きたわけだ。電話やメールはしょっちゅうしていたが、顔を見て直接会って話したくて仕方がなかったし、なによりも相手に触れたかった。

そんな花村の飢餓感をよけいに募らせたのは、今日になるとほぼ同時に送られてきた一通のメール。
誕生日おめでとう、とだけ綴られたメールの差出人は、もちろん決まっている。名前を見るだけで思考がすべて彼のことで埋め尽くされてしまうくらい、恋しい相手だ。

祝いの言葉には、もちろんすぐさま返事をした。プレゼントなんていらないから会いたい、なんて本音も思わず吐露してみた。なのにそれ以来、ぱったりと音沙汰がない。元々そんなにマメにメールの返事をくれる奴ではないが、本音を告げたところでストップされてしまうとあまりにもいたたまれない。
おかげで気になってしまって、今日は学校でもずっと上の空だった。あまりにも心ここにあらずで、一条や長瀬にまで心配されたくらいだ。

そして上の空のまま帰宅し、現在に至る。
とはいえ、家には誰もいないので静かだ。さすがに現役受験生なので、最近ジュネスでのバイトは回数を控えめにしていた。これでも、目指すは東京の大学だからだ。

もう一度、窓の外へと視線を投げる。雨足は弱かったものの、雨が止む様子はない。
せっかくの誕生日、どうせ誰よりも会いたい相手に会えないのなら、せめて晴れていて欲しかったのに。そう思うのは贅沢なのだろうか。

「……あ?」

その時、ベッドの上に放り投げてあった携帯が着信を告げた。しかも、この音はメールではない。

「って、えっ!?」

電話だ。それも、この着信音に設定してあるのは、たった一人だけだ。

「もしもし!?」

携帯をひっつかみ、ディスプレイに表示された名前も見ずに通話ボタンを押す。焦りすぎたせいか、声はものの見事にひっくり返っていた。
そんな花村の同様が伝わっているのか、いないのか。

『陽介、今どこにいる?』

回線の向こうから聞こえてくる声は、少しノイズが乗っているもののいつも通り、穏やかで優しい。その耳に心地よい声が、少しだけ花村の心を落ち着かせた。

「あ? や、部屋だけど」
『自分の?』
「そりゃ、もちろん」
『なら、よかった』
「へ?」

欲しかった声をもらえて心は凪いだものの、その声が告げる言葉の意味はイマイチ理解できないままだ。だが、そんな花村の都合なんて、もちろん構われるはずもなく。

『明日、土曜だから』
「へ?」

次の瞬間。
なぜか、花村の耳に──しかも、はるか遠く東京からかかっているはずの、携帯の向こうからも──聞き慣れたインターホンの音が飛び込んできた。



「ベタだけど、一度やってみたかったんだ」

転がるように階段を駆け下りて、破壊する勢いで開けた玄関の扉の向こうには、会いたくてたまらなかった相手が傘を差して、ひらひらと手を振っていた。
砂色の髪は雨に濡れて、いつもより艶めいている。同じく色素の薄い瞳は、よくよく見ればわずかに勝ち誇っているようにも見えた。

「……ベタか? かなりかっとんでないか?」

予想外の展開に目を瞠るしかなかった花村がやっとの思いで絞り出した言葉が、耳に入っているのかいないのか。

「遠距離恋愛の醍醐味だろ?」

さほど楽しくもなさそうな無表情で日々を過ごしているくせにその実は誰よりもおそらく人生というものを謳歌しているに違いないその人物は、この上なく満足そうな笑みを浮かべながら花村に向かって手を伸ばす。
つられるように、花村も目の前の身体に手を伸ばして。
なにはともあれ、まずは遠距離恋愛中の恋人同士らしく、互いの唇を重ねた。