2011年4月26日(火)昼休み

「ちょ、なにこれ。美味すぎるだろ、おい!」

箸を握りしめたまま、弁当箱の中身に感動しているのは花村だ。
昼休みの屋上には、あまり人影がない。曇っているとはいえ天気はそこまで悪くないのだが、吹く風がやや冷たいからだ。そんな状況でわざわざ屋上まで上がってくる物好きは、そう多くない。
吹きっさらしの屋上の、給水塔にほど近い壁にもたれて腰を下ろし、中身がぎっちり詰められた弁当箱を大事そうに抱え込んでいる花村は、その物好きのひとりでもある。

「マジで? 味あるならよかった」
「いやいやいや、味があるとかないとかそういう問題じゃないから! すっげー美味いから!」

花村にそうまくし立てられてもほんのわずか首を傾けただけでのんびりと箸を動かしているのは、色素の薄い髪と瞳を持つもうひとりの物好きだ。
さほど料理の腕に自信があるわけではないので、味見だけはきちんとしている。だから、食べられないようなものではないことだけは知っていた。昨夜、味見をしてくれた従妹、堂島菜々子も「美味しい!」と言っていたから、ちゃんとそれなりのものが出来ていたことも理解はしていた。

ただ、それとこれとは別だ。菜々子というか、堂島家と好みの味は似通っていたが、それが花村にも通用するとは限らない。いわゆるお袋の味に最適化されている舌に頼った料理の味付けは、基本的に薄味だ。育ち盛りの高校生男子には、もしかしたら物足りないかもしれない可能性もあった。
だが、とりあえず美味いと言ってもらえたのであれば問題はなかったのだろう。「味があるならよかった」という一言は、それゆえの発言だ。

「そこまで力説するほどじゃないだろ……ああ、わかった。お前って豚のしょうが焼き、相当好きなんだな」
「いや、ま、そーだけど。つーか、すっげー好物だからこそ味にはうるさいんだって」

やっぱり箸を握ったまま力説する花村の表情は、これ以上ないほど真面目だった。授業中もこんな顔をしていれば、成績はともかく教師の印象だけは良くなるんじゃないかとつい思ってしまう。

「そのツラであの度胸で、ついでに料理まで上手だってお前、どんだけなの」
「は?」

しみじみと言われて、さすがに箸を止めた。
まず、話の繋がりがわからない。なぜ、弁当のおかずに入れた豚のしょうが焼きの話から、顔だの度胸だのが出てくるのか。

「頭、大丈夫か?」
「あのな、真顔でそ−ゆーこと言うな。本気で自分の頭が不安になってくるから」

そこで流されるほうがどうなのかと呆れても、たぶん誰にも文句は言われないだろう。
箸を持ち直し、ブツブツ言いながら改めて弁当へと向き直る花村の姿を眺めつつ、首を傾げる。

花村陽介に抱いた第一印象は、『運が悪そう』に尽きた。どちらかといえば、『痛そう』のほうが正しいのかもしれない。
ちなみに『痛い』の意味は、いわゆる世間一般で言われている精神的な方ではない。そのままストレートというか、物理的に痛くなる方だ。

なにしろ見知った初日には自転車ごと電柱に激突したあげく、自業自得とはいえクラスメイトの里中千枝に蹴り飛ばされて、できれば絶対にぶつけたくないような場所を痛打していた。よくよく考えれば電柱にぶつかった時も、そこを直撃していたような気がする。あんまりにもあんまりで、そっと見なかったことにしたのを覚えている。
しかもその翌日には、頭からゴミバケツに突っ込んでいた。さすがにその時は手を貸して、そこでようやく名前と顔が一致したわけだ。どう考えても、運がいいヤツだとは思えない。

そんな風にして知り合った花村はとの縁がまさかここまで深くなるなんて、あの時は思わなかった。

(まだ、あれから2週間そこそこなのか)

首を突っ込んだことに、後悔はしていない。
確信などないし、理由などわからないが、なるべくしてこうなったのだという予感はある。稲羽に来たその日の夜に見た夢、マヨナカテレビの存在を教えてもらったその日の夜に体験したこと、その翌日にジュネスの家電売り場で遭遇してしまったこと、そこから続くいくつもの信じがたい出来事。
いくら信じがたくても自らが目の当たりにしてしまった以上、受け入れないわけにはいかない。幸い、そこであえて現実に目をつぶってしまうような性格はしていなかった。
だからこそ、前を見る。自分がやるべきことを、見定める。
テレビの中に落とされた天城雪子を救出した今、とりあえず一刻を争う事態には陥っていない。だからこそ、こんな風に冷蔵庫を漁ってのんびり弁当を作ってみたり、その弁当をできたばかりの友人に振る舞ってみたりしている。

「あー……マジ美味い」

目の前では、先刻までどこか複雑そうな表情を浮かべていたはずの花村が、もうそんなことはきれいさっぱり忘れた様子で弁当を頬張っていた。
一見明るくて軽くてノリのいい、それでいてじつは警戒心が強く安易には自身の領域内に他人を入れようとしないこの同級生は、たぶん転校してきてから最初に『知り合い』のラインを越えた相手だ。なにしろ知り合って3日目に、一歩間違えれば死んでいてもおかしくないような経験を共にしてしまっている。
その時、花村の本音を知った。花村自身認めることが出来ず、ただひたすらに押し込めるしかなかった心の一部が暴走し、本体を乗っ取ろうとするのを力ずくで止めた。
花村がそうまでして必死で否定しようとしていた本音の一部を、忌避しようとは思わなかった。誰にだって、人には知られたくない部分くらいある。それを偶然とはいえ知ってしまった以上、頭から否定することだけはしたくなかった。
憧れの先輩のために、思い詰めた表情で無謀としか言えないようなことをしでかせるこの男を、放っておけなかったのかもしれない。

「玉子焼き上手に焼ける高校生男子ってどーよ」
「ダメなのか? というか、上手か? それ」
「ウチのお袋のより美味いよ!」

花村はあれ以来、まるで数年来の友人のように屈託なく接してくれている。
それだけではない。気安い態度の裏に隠されていた薄い膜のようなものが、あの時を境にきれいさっぱり消えてなくなった。
見られたくなかった部分を知り合って早々に知られた以上、警戒する必要を感じなくなったのかもしれない。過程はともかく、それも喜ぶべきことだ。
弁当を食べながら全身を使って幸せを表現している花村の姿は、見ているとなんとなく心が和む。弁当を提供するかわりにおごってもらったウーロン茶を飲みながらそんな光景を眺めていると、米粒ひとつ残さずにすべてを平らげた花村がぱんと両手を合わせた。

「ごちそーさま!」

なんというか、意外なほどに行儀がいい。

「口に合ったようでよかった」
「合うどころじゃねえって。こんな弁当なら毎日食いたいっつの」
「毎日は無理だな」

そこまで気に入ってもらえたのなら、なによりだ。美味しいと言ってもらえるとやる気が出る、というのは本当のことだったらしい。
今までもたまに料理はしていたが、自分で食べる分しか作ることがなかったので、それを実感する機会はなかった。

(今度、夕飯も作ってみるか)

叔父の遼太郎は事件の捜査のせいで帰ってこないことも多いが、家には菜々子がいる。
育ち盛りの小学1年生に毎日総菜ばかり食べさせるのも、よくよく考えてみたらあまりほめられたことではないのかもしれない。1品か2品くらい、自分で作ったものを追加してみるのはどうか。

花村の反応のおかげでやる気になっている自分の単純さ加減に少しだけおかしな気分になりながら、空を見上げた。色の濃い雲が、青い空を完全に覆い隠している。
楽しかったはずの気分が、少しだけ冷えた。

「天気、悪いな」

ぽつりと呟けば、空になった弁当箱を片づけていた花村がぴくりと肩を揺らす。
ここに──稲羽に来るまで、雨はべつに嫌いではなかった。今だって、決して嫌いではないはずだ。
でも、今は。雨の訪れを予兆させるものは、どうしたって心を重くさせた。

「……明日から、雨らしいぜ。3日ぐらい、続くってさ」
「ああ」

雨が続くと、八十稲羽には霧が出る。
現実の世界が霧に包まれると、テレビの中の世界では逆に霧が晴れる。霧が晴れてしまえばシャドウは暴走し、ペルソナという己を守る術を持たない人は命を奪われるのだ。
他でもない、自分自身のシャドウ──ずっと抑圧してきた、見ないふりをしていた心によって。

「間に合ってよかった」

今、テレビの中に取り残された人はいない。
間に合った、助けることが出来た。その事実が嬉しくて、自然と口元がほころぶ。

「……天城もさ。早く、学校出てこれるようになるといいよな」
「そうだな」

だから、膝の上に弁当箱を乗せてぽつりと呟いた花村の頭に向かって腕を伸ばし、少しだけ乱暴にその髪をかき回した。
結局、花村はどこまでも優しいのだと思う。
優しいからこそ、あんなシャドウが現れた。どうせなら花村が苦しまずにすむ形で、シャドウが抱えていた本音を少しずつ昇華出来ればいい。

「ちょ、やめ、セットが崩れるー!」
「ははは」

どーせなら優しくして! と叫ぶ花村の後頭部を軽く叩いてから、もう一度空を見上げた。
雲は、分厚い。完全に太陽が隠されてしまっているせいで、辺りは昼間にしてはやや薄暗い。もうすぐゴールデンウィークに突入するというのに、なんだかさわやかさに欠ける天気だった。
──そのせいだろうか。
ひとつ、疑問が心に浮かぶ。

(俺はなんで、ペルソナを使えるんだ?)

己のシャドウを倒した覚えなどないのに、気がついたらペルソナを喚べるようになっていた。
気にならないといえば、嘘になる。ただ、気にしたところで意味はないことも知っている。

(まあ、いいさ。使えるものは、使ってやる)

天城が元気にさえなれば、ひとつ気がかりは払拭される。ただ、これですべてが終わるとは思えない。山野アナや小西早紀、そして天城をテレビの中に落とした犯人が見つかったわけではないし、あの世界の謎もまったく判明していない。

(クマとも約束したしな)

約束した以上、それは守りたい。あの青い部屋に住む長い鼻の老人とどこか人形めいた美女が予言した通り、契約は為されたのだ。
それに──思う。まったく予想だにしていなかった過程を経た結果とはいえ、花村と里中、天城、そしてクマは、この地で出来た大切な友人だ。
その友人たちは心にいくつもの弱さと矛盾を抱え、それでもなお前を向いて、一歩足を踏み出そうとしている。
そんな仲間たちを愛しいと思い、出来ることならその心を守りたいとも思う気持ちは、間違いなく本物だ。

(みんな、強い)

──自分の前に、未だシャドウが現れていないからこそ。
彼らの弱さと強さに、強い憧れを抱いた。