雨と相棒

2

「……そういえば」

家で夕飯を食ったあと、自分の部屋で雨の音を耳にすると同時に、ふと思い出す。
雨の日は釣りだと、あいつはそう言っていた。

なんでそんなことになるのかと言えば、雨の日っていうのは雨の音が釣り人の気配を消してくれるとかで、大物を釣り上げやすいんだそうだ。八十稲羽に来るまで釣り竿にすら触ったことがなかったと豪語してるヤツがなんでそんなこと知ってるのか、俺は不思議でならない。
ちなみにその豆知識は、なんでも鮫川で知り合ったじいさんに教えてもらったらしい。決して愛想がいいわけでもなければ人当たりのいい笑顔を振りまいているわけでもないのに、やたらめったら顔が広い相棒の交友関係は、たまに本気でわけがわからない。
釣りの達人らしいじいさんはともかく、なんでいっつも喪服着てるばあさんだの病院のナースだの神社の狐だの、そんなとこまで交友範囲を広げてるんだ? 永遠の謎だ。
とにかく、そういうわけで、雨の日は釣りなんだそうだ。
しかも、釣りっていうのは夜でもできるらしい。そういや夜釣りって言葉があったっけと、その話を聞いたときにはぼんやりそんなことも考えた。
で、さすがの相棒もテレビに入った日の夜は疲れるのか家でおとなしくしているみたいだが、そうでない日はけっこう夕食後にふらふら出歩いてたりした。主にバイトが多いとはいえ、たまに意味なく俺の家とかに顔を出すこともある。それはまあ、普通に嬉しい。クマも喜ぶし。
……そうじゃなくて。
真顔で、雨の日は釣りだと言い切ったあいつのことだ。
もしかしたら……と思って、俺は鮫川へと足を伸ばしてみることにした。もちろん、傘を持って。

「……って、ほんとにいるし」
「あれ、陽介?」

そうしたら、マジでいた。コンビニで500円で売ってる感じの見慣れたビニール傘を頭というか耳と肩の間に挟んで、暗い鮫川の河原でひとり釣り糸を垂らしている。八十稲羽にコンビニが存在しないという事実は、とりあえず脇に置いておいた。
釣りに集中してたのか、一応差していたらしい傘は明後日のほうを向いていて、あまり傘としての役目は果たしていない。地面に放り出していないだけマシなのかもしれないが、そうしていても結果はあまり違ってなかったんじゃないだろうか。見るなりそんな感想が頭に浮かぶ程度には、全身雨に濡れていた。
いくらまだ9月で残暑と言っても差し支えないとはいえ、もう夜だ。しかも雨が降っているせいで、昼間に比べたら気温は下がっている。
そんな中、頭から濡れ鼠になっていたらどうなるか。いくら転校してきてからこの方、一度も風邪すらひいていない健康優良児のこいつとはいえ、体調を崩す可能性は高い気がする。

「せめてちゃんと傘、させよ。傘の役目果たしてねえじゃん」
「うん、まあ、そうかも?」

おざなりにそんなこと口にしてるだけあって、俺の声に反応して相棒は一瞬だけこっちをちらりと見たけど、すぐにまた水面――というか水面に浮かんでいる浮きへと視線を戻している。もちろん、明後日の方向を向いている傘はそのままだ。
しょうがないので、宙ぶらりんになっている傘を取り上げる。それを閉じてから、かわりに俺が差してる傘の中に相棒を入れてやった。髪が濡れようが肩がびしょびしょになろうが今まで全然気にしてなかったくせに、降り続く雨を傘が遮るようになったことには気づいたのか、またしてもほんのわずかだけ俺のほうへと視線を流して目を細める。少しだけ、口の端も綻んでいた気がした。暗さではっきり見えたわけじゃないから、もしかしたら俺の願望からくる幻覚かもしれないが。

「悪いな」
「仕事しようとしてるのに邪魔にされてる傘が、どーにもこーにも哀れすぎっからな。……お前、じつはけっこうマゾい?」
「いや、そうでもないと思うけど」

心外だとでも言いたげに、ふたたび視線を川面に戻した相棒は首を傾げた。
鮫川の街灯は、土手の上にしか設置されていない。河原のあたりはほとんどその恩恵を受けることがなく、夜になると光源はほぼ月明かりだけになる。
今日みたいに雨が降っている日は、当然のことながら月なんか出ていない。土手の上から届くほんのわずかな光だけでは、足元もどこもかしこも心許なかった。
大体、よくこの暗さの中で、相棒のことを認識できたもんだ。土手の上から見えた背中で判別できたとか、なんとなく公言したらいけないような気がする。
しかもそんな闇の中、こうやってひとつの傘を分け合って、男ふたりが河原に立ちつくしているというのもおかしなものだ。どう考えても、普通じゃない。
――まあ、相棒の意識の中で俺の優先順位は今、かなり低いだろう。どう考えても最上位なのは、さっきから餌をつけて投げ込むたびにそう時間をかけずにぴくぴくと反応を見せる、釣り竿の先端だろうから。

「だよなー……どっちかってーとお前、サドいもんな」
「ええー……? そんなことないぞ……?」

それでも相棒はこうやって、どうでもいいような会話に付き合ってくれる。
視線も意識も他に向いていて、あきらかに片手間なのに、それがなんとなく心地良いのはなぜなんだろう。
……こうして隣に立つことを許されているのは、たしかだからかもしれない。

「あー……そういや釣りに来ちゃったから、明日の弁当作り忘れたな」
「なに作るつもりだったんだよ?」
「ほうれん草のごま和え」
「渋っ」
「しょうがないだろ。冷蔵庫の中身の都合だ」

そういえば、最近こいつの弁当のご相伴に預かってなかった。夏休み前はよく食わせてくれたんだが、二学期に入ってからはさっぱりだ。なんか、損した気分になる。

「ま、どっちにしろ作り忘れたから、明日は弁当なしだけどな。またパンだ」
「お前の弁当、美味いのになー……くそ、腹減ってきた」

さっき夕飯食ったばっかりな気もするのに、俺の腹はどうなってんだろう。まあ、食い盛りの男子高校生なんて、いっつも腹をすかせてるもんだとは思うけど。
でも、たぶん愛家のスペシャル肉丼をあっさり完食しやがるこいつに比べたら、俺の胃袋は普通のはずだ。そう思いたい。
というか、なんでこんな細いのに、あんなもんをあっさり食いきれるんだろうか。テレビの中で両手剣なんてもんを軽々と振り回してるこいつが華奢だとかひ弱だとは口が裂けても言ったりしないが、全身にしっかり筋肉はついてても、無駄な肉なんかどこにもない。
なんというか、詐欺だと思う。女子連中にバレたら普通に締められそうなんだが、たぶんこいつだったらそれも回避できるんだろう。それも、やっぱり詐欺だと思う。
……それにしても、腹減った。

「源氏鮎食うか? HP回復するぞ」

そんな詐欺っていうかチートの結晶みたいなヤツは、真顔で俺の前にたった今釣ったばかりの魚を差し出している。

「いやいやいや、ここテレビの中じゃないから」
「稲羽マスでもいいけどな」
「そういう問題じゃねえよ……」

そりゃ源氏鮎よりは稲羽マスのがHP回復するのは間違いないけどとか、そもそも川魚って生で食っていいんだっけとか、そういうところにツッコミしてもいいものなんだろうか。したら負けな気がひしひしとする。
基本的には俺よりもこいつのほうがツッコミ気質のはずなのに、なんで今その立場が逆になってるんだろうとか、そんなことも今は後回しにしたほうがいい気がした。
がっくりと肩を落としたくてしょうがない俺の内心なんて、たぶん相棒は気づいてない。その証拠に、また餌をつけた浮きを川へと投げ込みながら、どこか得意げに口を開いた。

「生で食えとは言わない。ちゃんと塩振って焼いてやる」
「ここで!? ここでかよ!?」

表情は、相変わらずさほど動いた様子もない。ただ、暗い中目を凝らして注意して見てみれば、少しだけ目元と口元がゆるんでいる。
たぶん、楽しいんだろう。俺の予想では、だが。

「いや、うちで」
「……なに、招待してくれんの? しかも焼き魚食わせるために」
「うーん、なんていうか」

ぱちりと数回瞬きをしながら首を傾げると、相棒は釣り糸を巻き上げた。浮きについていた餌を取って川へと投げ込んでから、釣り竿を肩にかつぐ。どうやら、今日の釣りは終了らしい。
そのまま踵を返して、迷いのない足取りで土手をのぼっていく。あわててその後を追いかけてから左手に持ったままだったビニール傘を差し出すと、軽く首を左右に振られた。でも、ちゃっかり俺が差している傘の中に入り込んできたところを見ると、濡れながら帰る気はないようだ。どうせ行き先は一緒なんだから、釣果と釣り竿のせいで手がふさがっている自分のかわりに傘を持てと、そういうことなんだろう。
まあ、それはいい。釣ったばかりの魚で夜食を食わせてくれるって言うんだし、それくらいはお安いご用だった。
ただ、気になるわけだ。途中で、途切れた言葉の続きが。

「なんていうか……なんだよ?」

なので、横に並んで傘を差しかけながら、催促してみた。

「陽介って、なんか餌付けしたくなるんだよな」

その結果としてそんなこと言われて、しかも目を細めながら笑われたら。
もう、なにも言えなくなってもしょうがないと思う。

「犬っぽいからかな」
「ちょ、それどういう意味!?」

でも、犬扱いはやめてほしい。