7days War

1st DAY

「あ、猫」
 その口調は、まるでなんでもないことを思いつきで口にしているかのように軽かった。
 実際、なんでもないことかもしれない。ここが東京のど真ん中だったとしても街中に猫がうろついていることくらいあるし、実際にそんな光景を目にしたこともある。飲食店が多ければそれだけ毎日のように出される生ゴミも多いわけで、もしかしたら自然が豊かで人が少ない場所よりも野良猫としては暮らしやすかったりするのかもしれない。あいにく、猫と会話を成立させられる能力は持っていないので、残念ながら志島大地にそれを確かめる術は今のところなかった。
 ただ、それはあくまでも日常において、だ。
 全壊とは言わずとも、ライフラインが無事なのかどうかさえさだかではない今の状況下ではいろいろと話が変わってくる。
「へ、猫?」
「うん、猫。無事だったんだな」
 聞き返せば、すぐ横にいた幼なじみは小さくうなずいてみせた。視線は、くだんの猫へと固定されている。
 その猫は、細い路地の片隅に積み上げられたダンボールの上で器用にバランスを取っていた。黒目がちな瞳は、これまたまっすぐに大地の横へと向けられている。
(なに、こいつら。見つめあってんの?)
 そうとしか言いようがない。ばっちり目が合っているというのに、警戒心をそれなりに持っているはずの野良猫が逃げ出さないことそのものが、そもそも不思議だもしかして猫と目と目で通じ合えるのか、なんてありえないことまで考えてしまった。
(もしかして、召喚アプリのおかげで猫の言葉がわかるようになったとか……あるわけないってな)
 そんな愚にも付かないことを考えてしまうあたり、大地もかなり疲れているのかもしれない。今日あったことを思い返してみれば、疲れないほうがおかしいくらいだ。
 本当に、いろいろなことがありすぎた。
 ただ、物心ついた頃から一緒にいた幼なじみと一緒に、模試を受けにいくだけのはずだったのに。
「あー……まー、人間よりそのへん敏感だったりするのかもしんねーな? 野生の勘とかで」
「そっか」
 落ち込みかけた気分を、思考を元に戻すことで無理矢理浮上させる。そう、今は自身を取り巻く状況の理不尽さを嘆いている場合ではなかった。
 未だに現実感が薄いこの非日常において、大地の意識を現実かつ前向きな状態で繋ぎ止めているのは間違いなくこの幼なじみだ。
 なにがどうなっているのかわかっていないのは大地と同じはずなのに、騒ぐことも必要以上に慌てることもない。もしかしたら大地が先に反応して狼狽するせいで、冷静にならざるをえないのかもしれなかった。
(わー、ありそう)
 だからといって、意識して落ち着くなんていうのも無理な話だ。出来るなら、最初からやっている。
 出来ないから、こうなっているのだ。
「そういえば、鳩もいないなあ。前に来た時はこのへん、けっこう鳩いたのに」
「そーいやそっか。鳩も逃げたんかな?」
「かもね」
 大地の心の中で波を立てているそんな小さな葛藤に、目の前の人物が気づいたそぶりはない。もしくは、気づかないふりをしてくれているのかもしれない。
 ただ、じっと路地にたたずむ猫を見つめている。
 慈しむような、優しい眼差しで。
「にゃあ」
「あ」
 そして──気づけばふいと視線を逸らして、猫はどこかへ行ってしまった。
 猫の後ろ姿を視線で追いかけながらぽつりと呟きをもらしたその人は、残念そうな顔をする。そのまま、大地のほうへと振り返った。
 そのときにはもう、残念さの中に少しだけ、違う感情が混じっている。
 大地の予想でしかない。ただ、たぶん間違ってはいない気がした。
 それは、きっと安堵の色だ。
「行っちゃった」
「そりゃ、ここいてもしょーがないっしょ」
 おそらく、猫が欲しいものは手に入らない。特に、こんなまともに稼働もしていない駅前の広場では。
 ここにいるのは、疲れ切った人間ばかりだ。交通手段がすべて全滅し、携帯の電波すらまともに届かなくなった都心部に取り残された人々は、なすすべもなくただ狼狽することしかできなかった。
 それにここではつい先刻、妙な悪魔との戦いが起こったばかりだ。戦う力を持たない人々は皆、散り散りになって逃げ去った。
 結果、今ここに残っているのは大地たち四人と、ジプスの職員のみだ。ジプスの東京支局からあわてて逃げ出してきたのはほんのついさっきのことのような気がするのに、結局こうやってジプスの人たちに助けられている。
(いや、ま、助けられたのって俺だけ、だけどさ)
 なんだかんだで、仲間たちはジプスの力を借りるまでもなくドゥベを倒した。
(つーか、なんつってもこいつか)
 今日何度か悪魔たちと戦ったときも、いつだって例外なく大地たちに指示を出し戦況を導いていたのは、この誰よりも身近な幼なじみだった。
 本来、ただの高校生のはずなのに。
「つか、これからどーすんの?」
「そりゃあ、行くしかないんじゃない?」
 改めて尋ねてみれば、それはもうあっさりとそんな答えが返ってくる。言外に、他に選択肢あったっけと聞き返されているようにも思えた。
 それは、たぶん間違っていない。目を瞬かせながら、不思議そうに首を傾げている。
「……マコトさんたちに着いてくって?」
「他にないだろ?」
「そりゃそーなんだけどさ」
 正直なところ、迫真琴と名乗ったあの年上の女性にさほど抵抗はない。なんだかんだ言いつつ彼女は仙草寺で大地を助けてくれたし、維緒の足の手当もしてくれた。
 問題は、他にいる。ジプスの局長と名乗った、どう見ても偉そうかつ怖そうなあの人物。
 できることなら、あの局長にはあまりお目にかかりたくなかった。理由はよくわからないが、ヘビに睨まれたカエルのような気分になる。
 ただ、なんとなく感じるものはあった。あの冷たい目をしたジプス局長にとって、自分たちはただ使える力を持った駒以外の何ものでもないのだろう、ということは。
 大地ですら気づいていることに、大地よりも頭が良くて聡い幼なじみが気づいていないわけがない。なのに、そこへあえて飛び込むことをまったくためらわないその豪胆さに感心すると同時に、呆れた。
(あー、でも)
 よくよく思い返してみれば、いつだってそうだった。
 今までは、こんな緊迫した状況ではなかっただけだ。
「お前ってさ、なんだかんだ言ってけっこー怖い物知らずだよなー……」
「そう?」
 案の定、言った本人は飄々としていた。はたしてその自覚があるのかないのか、その何気ない一言からでは判別出来ない。
 ただ、顔を見てみたら笑っていたので、おそらくは自覚らしきものはあるのだろう。
(たぶん、だけどな)
 聞いてみたわけではないので、絶対にそうだとは言い切れないが。
「そう、じゃねーだろ。どう考えたってそーだろ」
「トラックでさっきのアレに突っ込んでったダイチには言われたくないなー」
「だから、あれは必死だったんだって!」
 それで死にかけていれば世話はない。だけど、なんとか死は回避したのだから、終わりよければすべてよしだと思いたかった。少なくともあのとき、ニカイアに大地の死に顔動画はアップされなかったのだ。
 実際には、そんなことを考えている余裕もなかったわけだけれど。そして、それもばれているのだろうが。
 でも、返ってきた反応は違っていた。
「うん、知ってる」
「へ」
「俺たちを助けるためだったって、知ってる」
 さらりとそんなセリフを口にして、彼は大地の隣から一歩前に踏み出した。
 そのまま、維緒とジョーがいる場所へと向かって進んで行く。その先では、ジプスの職員たちが何人か自分たちを待っていた。
「ちょ、ちょっと待って」
 あわてて追いかけても、歩みは止まらない。前へ進む背中を、後ろを振り返らなかった。
 それでも、声は止まらない。今日までの日常を象徴するような、なんてことない言葉が投げて寄越される。
「ダイチはやるときはやるヘタレだもんな」
「おうよー! ……って、今ヘタレって言った?」
「言った」
「でも、知ってるよ」
「……なにを?」
 聞き返せば、前を歩いていた背中が振り返った。長い耳のついたフードが、ふわりと揺れる。
「ダイチは、ほんとはかっこいいってこと」
 そう言って、彼は笑った。
 すっかり陽が暮れてしまった、新橋の駅前で。