堂島家のとある冬の日

「おい、どうなんだ」
「は……、え? あの、どうって?」
 急に、そりゃあもう唐突に話を振られて、かなりの勢いで驚いた。桟敷席でのんびり観劇してたのに気づいたら力業で舞台に上げられてた、そんなレベルで突拍子もなかった。
 これが、いままで和やかに会話をしてました、と胸を張って言えるやりとりの先にあったのなら、べつに驚かない。泣く子も黙る稲羽署の鬼刑事である堂島さんはちょっとばかし強面だけどいい人だし、それは俺もよく知っている。しかも、じつはこう見えてかなりの親バカかつ叔父バカだ。
 でも、強面。ついでに、たぶん堂島さん本人にそんな自覚は、カケラもない。
 そのへんはハタから眺めてるぶんには微笑ましいだけだし、今はもう堂島さんに大きな隠し事をする必要もないので、気楽なものだ。
 でも、今のは困る。というか、一体なにがどうなってるのかまったくわからない。
 なんせ、今までずっとこの部屋──堂島家の居間には沈黙が漂っていたはずだからだ。
 とはいっても、べつに居心地悪い沈黙ってわけじゃない。堂島さんが静かに酒を呑んでる音と、俺がウーロン茶片手に携帯いじってる音と、あとふたりぶんの穏やかな寝息がBGMとして流れる環境は、なにひとつ会話がなくてもけっこう心を安らがせてくれるものだった。俺はそれに甘えきって、どっちかと言えば幸せ気分にほんわりと浸っていたわけだ。正月早々、堂島家の一家団らんにまざって。
 なんで俺がここにまざってるのか、それは語るも涙な物語……があるわけじゃなくて、単に年始の挨拶に寄ったら引き留められただけだ。今日はバイトも休みだったから、ありがたく誘いに乗った。ちなみにクマはバイトがあるので、泣く泣く帰っている。たぶん、帰ったらあれこれ絡まれるに違いない。
 とにかく、そんな状況から飛び出してきた「どうなんだ」だ。堂島さんがなにについて聞きたいのか、俺にはそれすら想像できない。ただ、俺と堂島さんはなんとこたつをはさんで向かい合ってる状態になっているので、じいっと見つめて──というかねめつけてくる視線から逃れることもできなかった。
 心の中で助けを求めながら、ちらりと目を動かす。こたつの隣の辺を陣取っている相棒は、ぴくりとも動かない。なぜか相棒と同じ辺からこたつに入り込んでいる菜々子ちゃんに腕枕をしてやりながら、ぐっすり寝入っている。もちろん、菜々子ちゃんも寝てる。
 このふたりが穏やかな寝顔をさらしてうたた寝している図はとっても幸せになれるんだが、状況が状況なんでちょっとやるせない気分になった。頼むから、俺も助けてくれないか。
「どうもこうもないだろうが」
「ど、堂島さん?」
 そして堂島さんは、ものの見事に酔っていた。顔が赤い。話の脈絡のなさは、だからか。
 ずっと呑んでるんだから、当たり前といえば当たり前だった。こたつの上にはビールの空き缶がごろごろと転がり、一升瓶も半分くらい空いている。
 というか堂島さん、退院したばっかりなのにこんなに呑んでて大丈夫なのかって、今頃気づく。遅い。
「大体だなあ。なんで、ああなんだ」
「え、えーと?」
「菜々子もこいつも」
「は、はあ」
 日本酒がなみなみと注がれた(手酌だった)グラスを手にしたまま、堂島さんが視線を動かす。その先ですやすやと寝入っているのは、さっき俺もちらりと横目で見ていた相棒と菜々子ちゃんだ。
 堂島さんはどうやらなにか文句っていうか愚痴を言いたいっぽい気がするんだけど、菜々子ちゃんと相棒がこうやってセットになってるってことは、なにかお父さん的な悩みだったりするんだろうか。
 いやでも、菜々子ちゃんも相棒もどっちかっていえば優等生なほうで、あんまり親に心配かけるようなことはやらかさないタイプだ。そういった面では、堂島さんはなにも気を揉む必要なさそうなんだけど。
 ああ、相棒はたまに、授業さぼって屋上で昼寝してたりしてるけどな。俺と一緒に。
 それはおいとくとして、誰かと揉めごと起こすようなこともないし、人気者だし、保護者としては自慢できる兄妹だと思うんだけど、そうじゃないのか。
 ──とか考えてたら、堂島さんはあおっていたグラスを勢いよくこたつの天板に叩きつけた。あ、もう空になってる。
「顔が広いのはいいんだ。誰とでも仲良くなれるってのもだなあ、親としてはいいんだよ。いじめられてやしないかとかそんな心配しなくていいんだから、安心なんだ。だけどな、あれはやりすぎだろう……!」
「え」
 続いて堂島さんの口からこぼれてきたのは、そんなちょっと予想外の言葉だ。
「可愛がってもらえるのは親として嬉しいんだがな、対象が不特定多数すぎてたまに心配になるんだよ。評判いいのは言うことないが、こいつら……菜々子とこいつのの後ろを怪しい奴が尾けていた、なんて報告もあったし……」
「つ、つけてた!?」
 なんだそりゃ。そんな話、聞いたことがない。
 ああ、でも、冷静になって考えてみればありえない話でもなかった。菜々子ちゃんはともかく、相棒は女にも男にもモテるから、隙あらば声かけよう手紙でも渡そうプレゼントして気を引こうってヤツが後ろをつけ回しててもおかしくない。そこまでなりふり構ってない感じじゃなくても、相棒に振り向いて欲しそうなヤツなら実際に何人も見たことがある。言葉を交わしたりしなくたって、そいつらがなにを期待しているかなら手に取るようにわかった。
 とはいえ、わかるからってそこでいい気分になるわけじゃない。むしろ逆だ。
 俺の相棒をじろじろ見るな、減る、とか心のせっまいことをたまに思ったりするくらいには、いろいろと複雑な気分に陥っている。それもしょっちゅう。
 もちろん、それが俺のどうしようもないっていうか子どもっぽい独占欲からくるものであって、誰が悪いわけじゃないってのもわかっていた。わかってても拗ねたくなるんだよ、ちくしょう。
「まあ、犯罪目当てじゃなかったようだけどな」
「そ、それならよかった……です?」
 ただ、菜々子ちゃんを尾行してるヤツは、犯罪じゃなくてもちょっとヤバイんじゃないだろうか。気をつけるように、あとで相棒にも言っておいたほうがいいかもしれない。万が一のことがあったら大変だ。十二月を乗り越えてやっと、菜々子ちゃんと堂島さんがここに戻ってきたんだから。
 そのことに、誰よりも喜んでいたのは相棒だ。こいつのことをすぐ側でずっと見ていた俺は、そのことにものすごく安堵した。だから、もう二度とあんなことを引き起こさせるつもりはない。
 たったひとりで、所在なげにここに突っ立っていた相棒の背中を見てしまったときに、俺は絶対にこいつの心を守る、誰にも傷つけさせないって決めたんだ。
 とりあえずその相棒は今、菜々子ちゃんと一緒にそれはもう幸せな顔で寝こけているので、放っておいていいとして、だ。
「おい、酒」
「え、あ、はい。どーぞ」
 俺は手始めに栓が開きっぱなしになっていた一升瓶へと手を伸ばすと、ご要望通り空になっていた堂島さんのグラスへなみなみと酒を注いだ。
 堂島さんがこれ以上飲ませたらやばいだろってくらいべろべろだってのは見ればわかるんだが、このまま放っておいても酔いは醒めないだろうし、いっそ酔い潰して寝かせたほうがいい気がする。そのためには、これがいちばん手っ取り早い。
「おう、悪いな」
 酔っ払ってみごとな絡み酒になっていても、強面の顔がいつも以上にしかめっ面になってても、堂島さんはやっぱり気のいい人だった。
 微妙に回っていないろれつで礼を口にすると、またしても勢いよくグラスをあおる。一気に半分以上が消えてなくなった。
 潰れるまでにどれくらいかかるんだ、これ。
「大体だなあ……菜々子だけでも気が気じゃないのに、こいつまでそんな感じなのはどういうことなんだ? いや、本人がいいなら俺はべつにいいんだ、菜々子と違ってこいつはもうそこそこでっかく育ってるからな。だけどなあ、まだあくまでも未成年で、法律的には子どもで、うっかりなにかまずいことになったりしたら姉貴にあわす顔がないだろ……!」
「そ、そうですね」
 その堂島さんの甥っ子とうっかりなにかまずいことになってるかもしれない俺としては、ちょっとばっかり肝が冷える。いやいや、でも合意の上だし。無理矢理とか絶対ないし。そもそもあいつのほうが常に積極的だし。そういう問題じゃないのはわかってる。
 というか、そもそも堂島さんが本当に言いたいのはそういうことじゃないんだろう。
「で、でも、菜々子ちゃんもこいつも、家族のことがいちばんですよ。それは、近くにいるとすごくよくわかります。だから、大丈夫だと……」
「…………ああ、わかってる。わかってるんだが、たまに少し寂しい気分になってな。その、なんだ……単なるぜいたくってやつだ。仕事にかまけて、こいつらのことをあんまり見てやってないのは俺自身だって言うのにな……」
「や……その。ちょっとわかります、それ」
 本当は、ちょっとどころじゃなくわかった。たぶん堂島さんが子どもたちのことを心配している以上に、俺はしょっちゅう気が気じゃない。
 理由は、さっきまで目の前で愚痴られていた内容とまるで同じだ。
 まだ稲羽に来てから一年経ってないってのに顔広すぎるし、人気ありすぎんだよ、相棒……。
「……ああ、そうか。そうだな。お前ならわかるか。菜々子より切実だよな、そうだよなあ」
「ええ、まあ、かなり……ん?」
「俺にとっちゃあ菜々子もこいつもどっちも子どもで、それはこの先も絶対揺るぎゃしないが、お前にはそういう確固たる礎もないわけだしな。そりゃあ、気が気じゃないだろ。まあ、せめて俺が応援しててやる」
「い、って、え?」
 心から同意しかけて、はたと我に返る。
 いやいやいや、ちょっと待て。なんで、堂島さんに「花村ならわかる」とか言われてるんだ。それも、ものすごく納得した素振りで。
 しかも、菜々子ちゃんより切実って一体どういうことなんだ。それって、もしかしなくても、俺が気が気じゃなくなってるのは相棒対象だってばれてるってことなのか。え、え、え?
 というか、応援ってなんだ。いろいろ考えた結果、つい勢い余ってこたつに突っ伏した。
「あ……あの?」
 おそるおそる、目線だけを上げて堂島さんの顔をうかがう。さっきまでどこか悄然としていたはずの堂島さんは、なぜか得意げに俺を見下ろしていた。
 酔っ払いの気分は一分ごとにころころ変わるって本当だ。しかも、堂島さんの場合は酒癖が微妙に悪いからよけいに始末に負えない。気がする。
「見てりゃわかるんだよ」
 そうやって「どうだ、参ったか」とでも言いたげな得意そうな表情は、外見の共通点なんてほとんどないのに、なぜか相棒を思い出させた。やっぱり、これは堂島家の血なのか。
 そういえば、相棒の母親も酒癖悪いって言ってた。堂島さんもコレだ。
 つまり、相棒には酒を飲ますなってことか。
「えっと……その……すいません」
 とりあえず、穴を掘って今すぐ埋まりたい。
 とはいえここは屋内で穴なんて掘れないし、そもそも家の中に穴掘ったらあとで相棒に八艘飛びあたりくらいかねないし、ものすごく敵前逃亡したいけどそんなことしたらやっぱりあとが怖いので(もちろん、堂島さんと相棒が)、その場でふたたびうなだれるだけにした。勢い余ってこたつの天板に額がぶつかって、ごんと音を立てる。痛い。
「応援はしてやるが、泣かせたら承知しないぞ」
 頭の上に降ってきた声は、怒っているようにも機嫌を損ねているようにも聞こえなかった。どちらかといえば、笑っているように聞こえたかもしれない。
 でもたぶん、目は笑ってなくて、今の言葉は堂島さんの心からの本音なんだと思う。
 俺だって、そんなことはしたくない。泣きたいのに泣けない、そんな相棒の姿を側で見ていたから、より強くそう思う。
 だから、勢いよく顔を上げた。自分では見えないからわからなかったが、この上なく真剣な表情をしていたんじゃないかと思う。
 堂島さんの目元が、柔らかく緩んだ。
「が、がんばります」
「おう」
 そう言ってグラスをあおった堂島さんは、やっぱり機嫌が良さそうだった。


「ふわぁ……あれ、叔父さん寝てる」
 もぞもぞと動いていたと思ったら急にぱちりと目を開けて、あくびをしながら起き上がった相棒が開口一番口にしたのは、そんな台詞だった。
「つか、お前も寝てただろ」
 寝ている菜々子ちゃんを起こさないように、ちょっとだけ声をひそめておく。
 でも、あんまり効果ないかもしれない。枕が起き出してしまったので、菜々子ちゃんも落ち着かない感じでもぞもぞ動き始めていた。
「菜々子寝かしつけてたら俺まで寝かしつけられた」
「添い寝か!」
「添い寝を馬鹿にするな。添い寝効果って理屈じゃなくすごいんだぞ」
「ソウデスカ……」
 ドヤ顔でなにかを主張している相棒の頭に手を伸ばして、寝癖で跳ねてる髪をおざなりに撫でてみた。
 女の子みたいにキューティクルさらさらってわけでもなくて、でもなぜか触ってると心地良い気分になるのは、髪うんぬんってよりも結局はこいつが相手だからなんだろうなってしみじみ思う。
 ちなみに撫でられている本人は、猫みたいに目を細めて気持ちよさそうにしていた。これも、相手が俺だからこその反応だったら嬉しいんだが、どうだろう。
 そんなことしてたら、相棒の横からぴょこりと菜々子ちゃんが顔を出す。
 その視線は、こたつに突っ伏して寝ている堂島さんに向けられていた。
「おはよう、お兄ちゃん、陽介お兄ちゃん。お父さん、よっぱらってねちゃった?」
「そう。けっこう飲んでたからなー」
「ほんとだ。お父さん、おさけくさいー」
 こたつから出た菜々子ちゃんが、おそらくは毛布を取るために居間から出て行く。その背中を見送っていたと思ったら、相棒がいきなりこっちを振り返った。
「陽介。お前、酒飲んだ?」
「え。あ、ちょっとだけ」
 じつはべろっべろに酔っ払った堂島さんにすすめられてっていうか無理矢理押しつけられて、ほんの少しだけ飲んだ。
 飲ませてもらった日本酒はこれまた意外に口当たりがよくて、調子に乗って量飲んだらヤバイだろうなって感じありありだった。幸い、理性が働いたのでほんとにちょっとだけで自重したけど、自重しなかった堂島さんはもののみごとに眠りの世界だ。
「未成年に酒飲ますとは……叔父さん、やるな。刑事なのに」
「保護者同伴かつ家飲みだし、大丈夫……じゃね?」
「まあな。……というか、陽介だけずるい。俺も飲みたい」
 そう言われた途端、堂島さんの相手をしながら頭をよぎった想像がぼんっと脳裏に蘇る。
 やばい。だめだ、絶対ダメだ。
「お前は甘酒にしときなさいっ」
 ノンアルコールならきっと大丈夫。少なくとも、修学旅行のときこいつは場酔いしてなかった。
 とっさにそう判断してダメだしすると、相棒は不満そうに口を尖らせる。
「じゃあ」
 かと思ったら、俺の胸元を無造作に引っつかんで力いっぱい引っ張った。
「うわ……っ!?」
 バランスを崩した俺の唇に、次の瞬間かさついているのにやわらかいものが触れる。
 それは唇に触れるだけでは飽き足らず、隙間から侵入してきて舌までしっかり舐めていった。おい、これは一体どういうことだ。
「うーん、味しない」
「…………あの?」
「いいだろ、公認なんだし」
 俺を仰天させた張本人は、ニヤリとそれはもうきれいな顔で笑ってる。
 ……こいつ、じつはずっと起きてたんじゃないだろうな?